北川支流遠敷川流域に位置し、古くから「おにふ」の名で呼ばれ,若狭地方における文化の中心を形成していた。「おにふ」は最初は小丹生と記されていたが、8世紀初頭ころからは遠敷の字が当てられるようになった。 遠敷村は遠敷郡の中心地であったと考えられ、中世には定期市も開かれている。この遠敷市は室町末期までは存在したと推測され、若狭姫神社の門前市であり、交通の要衝に位置するため宿場的な要素もあったようだ。 江戸時代は小浜藩領で、東西に丹後街道が通り、この地域の経済の中心であった。 慶応2年(1866)の記録によると家数191であったが、明治6年には277と大幅に増えている。 明治24年には家数272・人数1,640とあり、当地は明治期から昭和期にかけて商・工・農すべての面において他地区を圧倒して、この辺りの経済の中心であった。全戸数の約3分の1が商業に従事していたと見られ、昭和の高度経済成長期以降小浜の商店街にその地位を奪われるまで、周囲農村部の人々に日用雑貨品の供給を一手に引き受けていた。 又この地では江戸末期に一時衰退していたメノウ細工が明治になって再興され、生糸工業も明治期に盛んに行われた。 今町並を歩くと、江戸末期から明治期に建てられた重厚な商家の建物が並ぶ町並が現れる。平入りで切り妻造りの建物が多い。中2階建てが多く江戸末期の様式を継承した建て方の建物が多い。このように古い町並が旧丹後街道に沿って延々と展開するので、いろんな時代の建物に出会える。 でも、現代風の建物が少ないのが、この町並の価値をあげていると思う。 私も古い町並を訪ねてもう10年以上全国を歩いていますが、このような見ごたえある町並が有るとは知らず、驚きの当地訪問でした。町並の保存活動がなされている様でもないので、住民意識を盛り上げて保存の方向で進んで欲しいものである。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 福井県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |
遠敷の町並 |