今回訪ねた所は小浜市内から阿納尻への旧幹線道路沿いの村々である。 町並みの成り立ちは、慶長5年(1600)関が原の戦い後、京極氏が国主として入部、翌年より竹原(たわら)村の海岸(雲浜)に住む漁業民を北の地に移動させて築城をはじめた。 竹原村(雲浜)からの漁業民は小松原村に移住し、下竹原(しもだわら)村となり、下竹原村の北部の小松原村は新小松原村となった。下竹原村の山側は北塩屋村で、その南側が湊(江戸時代は大湊・小湊村)である。 小松原村・下竹原村・新小松村は共に漁業集落として発展し町場化していた。それらの村々の山側の北塩屋や大湊・小湊村は農村集落であった。 小松原村は室町末期には漁業集落として成立していたようで、江戸時代には網元が多く住んでいた。新小松原村も漁業集落で、この二つの集落は大網・磯引き網を営んでいたが、間に挟まれた下竹原村は網立てが許されず、延縄を主体としていたが、漁業活動は活発であった。 慶長7年(1602)の若狭国浦々漁師船等取調帳は三小松原(小松原・竹原小松原・新小松原)合わせて50艘の船と水主数195人と記されていて、漁業で繁栄していたのが判る。水揚げされた魚は小浜市場の問屋に卸されていた。 北塩屋村・大湊村・小湊村は共に農村集落であり、慶応2年(1866)の北塩屋の家数は130を数える。 今、古い町並みは古い道(阿納尻への道)に沿って展開している。江戸時代から町場となっていたことは今でも歴然と町並みに残っている。これという豪商の屋敷は残っておらないが、切り妻造りの中2階建て平入りの伝統的な様式の町屋が連なる。袖壁を備えた家屋、虫籠窓を残した家、バッタリを備えた家、格子戸を残した家、妻入りの家等など、見応えのある古い町並みが残っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 福井県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
下竹原の町並 |
下竹原の町並 |
右側下竹原・左側北塩屋 |
下竹原の町並 |
下竹原の町並 |
下竹原の町並 |
下竹原の町並 |
北塩屋の町並 |
湊の町並 |
湊の町並 |