尾道市 | ||
料亭旅館 魚信 |
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広島県尾道市久保2丁目27-6 電話 0848-37-4175 |
料亭旅館魚信の前景 |
魚信の前景の夕景 |
魚信の入口(前栽越しに障子の入口)は風情があります |
尾道は江戸時代には東西に延びる山陽道も通り、広島藩の東端の宿駅とされ、山陽道・石見路が交わり、西回り航路の北前船の寄港する港町・宿場町・商業の町として発展した町。物資の集散量が増大し海岸は次々に埋立てられて、町は南へと広がって行った。また石見銀山の銀が石見路経由で当地から広島藩の船で室津(現兵庫県)まで輸送され江戸に向かった。 享和2年(1802)尾張の商人菱屋平七はその「筑紫紀行」に「町家五六千軒あり、町通り家居のさまなんど上方に替る事なし。商家は万の問屋おほし……」と記している。 明治17年には大阪商船の寄港地ともなり、賑わいの最盛期を迎えた。多分この頃に港に近いこの地に魚信の現在の建物が建てられたと思われ、明治末の尾道港の写真に魚信の建物が写っている。その後どんな変遷があったか不明だが、大正15年の尾道商工案内に尾道調理組合の広告に「魚信」が出ているので、その頃には料理・仕出しをやっていたのだろう。 昭和25年頃に全館の改装工事が行われて、ほぼ現在の建物になったようです。その後昭和52年に海岸通の道路拡張で建物の一部が削られ、塀が後ろに下げられた姿が今見られる姿のようです。 その間の昭和40年からは、株式会社千光寺山荘グループの料亭旅館魚信としての営業が続いています。 「料亭旅館魚信」は「オコゼ」料理と数寄屋造りの建物を売りにした「料理旅館」で、尾道水道沿いの海に面して佇む。海岸通に面した入口から左に折れて進むと、風情ある前栽の奥に障子の入口がある。障子をあけて声をかける。そしてイキナリ上に揚がる。多分昔は畳だったのだろうと思うが、今はカーペットが敷かれた小さな部屋。古い時代に戻ったような錯覚を覚える。 案内されたのは凝った意匠や坪庭のある廊下を奥に進んで、狭い急勾配の専用階段を登った部屋。窓の外には尾道水道が広がっている大変見晴らしのいい部屋。開口一番この部屋から魚釣りができるねと。 案内願った女性(女将じゃない)に頼んで多くの部屋を見せて頂いた。どの部屋も意匠に凝ったものが備わり、数寄屋造り家屋そのものと云う感じであったが、瀟洒な造りにするためか階段や廊下が複雑で、案内願った後、自分の部屋に帰るのに苦労する程であった。 入口近くの古風な応接室には昭和22年の宿泊料金表が掲げられている。一等85円・二等80円・三等70円とあるが、英語表記もある。当時の尾道にはGKQの情報部が置かれていて、その人たちが利用されていた名残とのことだった。 料理に力を入れている料亭旅館魚信に泊って、肝心な料理が判らない情けなさを感じながらの食事だった。食事場所は泊った部屋の下辺りの個室(客室)、夜の尾道水道を見ながらの食事で、一品ずつ運ばれてくる会席料理で「オコゼの薄造り」等と一品ずつの説明を受けての食事。美味しいとしか表現できない情けなさを痛感した食事だった。 千光寺山荘グループとしての営業だから、創業時からの経営者も代わり、今は何代目などと云うことは出来ないが、まあ創業100年は超えているだろうと思われる老舗旅館である。建物も100年ほど経つ古い建物だが、建て付けや内装などはよく改装や補修されていて、部屋に最新式のトイレと洗面台が設置されていたのには驚いた。 (2017.12.21宿泊) |
泊まった部屋、大変に意匠が素晴らしい |
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泊まった部屋から外を見ると、障子の意匠も素晴らしい |
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泊まった部屋から見る風景 |
泊まった部屋からみた夕景 |
泊まった部屋から見た早朝の尾道大橋と尾道新大橋 |
泊まった部屋への専用階段、大変急勾配で狭い階段 |
入口から見た入ってくる通路 |
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広間 |
客室ですが、料理の客のための準備 |
食事場所の欄間 |
食事場所の意匠 |
茶室 |
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応接間に揚がっていた昭和22年の宿泊料金表 |
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廊下の様子、.天井・壁の意匠に注目 |
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大広間ですが、天井の意匠に注目 |
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3階部分から見た尾道水道、この部屋は宿泊には使えないそうで、料理のお客さん用 |
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廊下の横には何気なく、坪庭の手水鉢が |
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夕方の入り口 |
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廊下の意匠 |
客室ですが、料理客のための準備が |
魚信の外観、尾道水道に沿っている |
魚信の横の外観 |