今治市 大三島町 |
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旅館茶梅 | ||
愛媛県今治市大三島町宮浦5467 電話 0897-82-0008 |
旅館茶梅の前景 |
旅館茶梅の夕景 |
入口玄関 |
愛媛県大三島の大山祇神社の門前町にある「旅館茶梅」を訪ねる計画を立てた。 私の住む大阪から見ると、しまなみ海道の大三島は広島県福山市や尾道市からのアプローチだから中国地方に入ると思うが、大三島は今治市で四国圏になるのはちょっと意外だった。 JR福山駅から今治駅行の高速バスで約50分、大三島バスストップで下車し、瀬戸内バスに乗り換えて宮浦港にやってきた。バス停の前に旧大三島町庁舎(今は今治市大三島支所)があり、宮浦港が目の前。でも何だか様子がおかしい。まず人が見られない。そう云えば終点のバス停で降りたのは私一人。目の前には朱色に彩られた屋根付きの大きな桟橋が見られるが、船は全く見当たらないし、人もいないし、現役の桟橋とは思えないが綺麗な朱色が輝いている。 大きな鳥居をくぐって大山祇神社に向かって参道を歩きだしたが、参道両側には土産物屋・飲食店やいろんな商店が約1kmに亘って軒を連ねているがどの店も閉店していて営業している様子はない寂しい参詣道になっている。 そんな参詣道の一番端、一番大山祇神社に近い所に「旅館茶梅」があった。 宮浦港には大正元年から汽船が就航し、昭和26年には港務所も完成、その後大型フェリーや水中翼船・高速艇などが寄港する観光港となり、港から大山祇神社までの参道は土産物店・飲食店等が並び参詣客などで大変賑わった。 しかし、1999年に「しまなみ海道」が開通し、大三島も自動車道によって広島県や愛媛県が結ばれたことにより、宮浦港から参道を通って大山祇神社を参詣する方が激減してしまい、その参道商店街が寂れてしまったのだ 江戸期・明治期・大正・昭和期と大山祇神社は武門の神・海神として祀られ、多くの参詣客を集めてきたし、自動車道の開通によって以前にも増して参詣客が増加しているが、この参詣道に参拝客が通らなくなってしまった。 「旅館茶梅」の入口玄関を開け、声をかけると、従業員と名乗る女性が、開口一番自転車は??と聞く。 かっては大山祇神社参詣客を宿泊対象としていたのが、今ではサイクリングで「しまなみ海道」を走る方を対象に旅館営業がなされているようだった。そう云えば自動車で1時間もかからずに福山市や尾道市、広島市に行ける距離になっている。 案内されたのは入口から奥まった鉄骨ALC造りの建物で、バス・トイレ付きの部屋。私にしては望んでいない部屋で、表の古い建物の部屋はと聞いても、使ってないし、経営者の住居部分になっているとのことだった。 「旅館茶梅」の創業はハッキリと判らないらしいが、江戸末期の資料に「茶梅」とあるので多分その辺りだろうと想像されるが、茶梅の説明では明治初期創業となっている。前の参道が完成したのは安永7年(1775)だから、徐々に参道に土産物屋や茶店、旅籠などが整備されていったと思われる。 茶梅の前の道に面した建物は、昭和30年代の初めに建てられ、旅館の客室として使用されてきたが、近年になり奥の庭だったところに新しく客室を新築したので、参道に面した古い客室は経営者の住まいや、空室にしていると女将の話だった。 話した女将は8代目で、気さくで話好きらしく、テキパキと色んな資料を示して話して頂いた。また、9代目の女将も忙しく立ち振る舞われていた。 旅館内の入口・廊下の各所にちょっとした生け花が飾られ、泊った客室にも水仙の花が飾られていてた。 部屋で食事を頂いたのですが、泊まったのは節分当日、その時に料理の器をのせる敷紙に「追儺」(ついな)と女将の手書きの文字が。「追儺」とは「おにやらい」と云う意味らっしいです。宮中の年中行事であり、平安時代から行われている「鬼祓いの儀式」だそうです。毎日お客に合わせてこの敷き紙を書かれると、食事を運んできた従業員の話でした。 そして食後、敷かれた寝床の枕元に鶴の折紙と、腰の辺りに使い捨てのカイロが敷かれていて、女将の心遣いに心和んでの就寝となった。 当日の宿泊客は私一人と、もう一組の5人組家族だけだったが、この「旅館茶梅」は繁昌している旅館らしく、多くの従業員が後片付けなどに従事されていた。 (2017.2.3宿泊) |
泊った部屋 |
客室 |
客室 |
大広間 |
客室だがチョットした会合などに使用するそうです |
大広間に置かれていた置物 |
旅館茶梅前の夜景 |
昭和38年の宮浦の写真 |
寝床に折鶴が置かれていた |
料理を乗せる敷紙に「追儺」と女将の手書きのもの。節分に泊ったので。 |