宮津市
清輝楼
京都府宮津市魚屋937
電話 0772-22-4123 

清輝楼の前面の光景

清輝楼の前面の夕景

清輝楼の入口

   京都府の最北部 丹後半島の東の付け根に位置し、宮津湾に面した宮津市は日本三景の一つ天橋立で名の通った町である。
城下町宮津は京極高広によって町割りされたものが、殆どそのまま残り、江戸期の北前船の立ち寄る港町として発展したところである
今でも伝統的な町並みが残っているのは、西河原通り、白柏通り、万町通り、魚屋町通り、そして新浜通りは花街の風情が今でも残っている。
今回訪ねた「清輝楼」は創業が元禄年間(1688~1704)と云うから300年以上前の創業である。
今の場所に移ったのは明治になってからで、この埋立地に移るまでは本町通りと、西堀川通りの一本東側の通りの交差点近くで営業されていたそうだ。
車を「清輝楼」入口前の建物一階の駐車場に置いて玄関を入ると、若い男性に出迎えられた。聞くと13代目という。入口から右側の3階建て建物は明治期の移転時の建物、左側の3階建ては大正期の建物と云う。
菊池寛が執筆に使った部屋との指定で泊まったが、本当にその部屋かどうかは、改めて聞かなかったので不明。大正期の建物の2階の8畳と6畳の続き部屋に広縁付の部屋で、風呂トイレまで備わっていた。
宿に着いたのは早い時間の午後3時半頃、フロントに降りて、12代目の女将に宿泊者の到着が未だだったら、館内案内図でみた良い部屋を見せて欲しいと頼んだが、連泊されているのでダメと断られた。話によると外国からのお客さんが連泊で利用されることが多いとのことで、殆どの部屋が詰まっている。3階の大広間なら昨日使用したところだから見せることができると案内してもらった。天井の高い折り上げ天井の大広間が二つ並んでいた。
明治期や大正期の建物ならもう少し古い構造材などが見られると思ったが、現代に合わせて改装や改造が繰り返されて今風になっているので、殆ど古い建物の感じが残っておらないのは少し残念。それでもアルミサッシュに変更されていない部分も多く、ユラユラと歪んで見えるガラスがあり、古い建物と認識できた。
3階の大広間から海側を見ると、大きな庭園が見える。「清輝楼」の庭??と女将に聞くと、そこの生垣が境界線との説明で、その先は公園の庭園とのこと。
昭和63年の京都国体のために海岸を埋め立てて、市民体育館・商業施設ミップル・島崎公園などが造られたもの。それまでは「清輝楼」の庭の先が海岸で、きれいな海が見えたのだがとのこだが、今は遥か向こうに海が見える程度。
私の宿に泊る目的は古い建物の旅館に泊まり、建物の様子を見ることだが、この清輝楼は古さを隠して(改装や改造で)居られるのでその点では不満足だった。でも宿側ではかっての宿泊者の文人墨客の残した作品を見せることによって「小さな美術館」として宣伝されている。館内のあちこちに陳列棚や陳列の展示場が設けられてた。
夕食は別室の和室で一人で頂いたが、女将の接待だったのには驚いた。朝食は皆さんと一緒に朝食会場で。全員で8名の宿泊者??、お客さんの靴はもっとあったが、食事なしの外国からのお客さんもあるのでとのことだった。
(2017.6.30宿泊)


泊まった部屋

泊まった部屋

泊まった部屋

3階の大広間

3階の大広間

夕食を頂いた部屋

階段

朝食会場

文人墨客の残した作品の数々

文人墨客の残した作品の数々
 
3階大広間から見た宮津湾の風景、公園越しに海が見える
 
清輝楼の庭園
 
入口に掛っていた柱時計、正確に動いていた

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