舞鶴市
舞鶴館
京都府舞鶴市余部下767
電話 0773-62-4500 

舞鶴館の前景

舞鶴館の夕景

舞鶴館の入口

   舞鶴市は古くからの城下町西舞鶴と軍港都市として発展した東舞鶴と二つの顔を持つ町であり、地形的にも全く異なった位置である。
西舞鶴は江戸期、城下町として大いに栄えたが、当時今の東舞鶴は一漁村であった。
それが、明治19年に海軍によって舞鶴湾の測量があり、軍港としてスタートした。そして明治34年第4海軍区鎮守府が置かれ、海軍工廠など軍関係の中核部門が置かれた。以後東舞鶴は昭和20年の終戦まで海軍の町として特異な発展を見せる。
新市街地は寺川と新川の間に計画的に碁盤目状に造成され、市街の西側に官舎山を中心とする海軍関係の施設が配置され、文字通り軍都となり、今に多くのレンガ建造物が残されている。殆どは明治34年から36年の間に集中して建築されたものである。
今回宿泊した舞鶴館は明治34年創業というので、丁度その海軍による舞鶴の発展時期の初期の頃の創業である。
案内された部屋は中庭に面した2階部分の角部屋で、雪見障子の備わった立派な部屋で、天井も独特な意匠を凝らした凝った天井模様だったが、不思議に床の間は簡易なものだった。案内して頂いたのは4代目女将の娘さんで、他の部屋でもこの旅館は床の間に力を入れてないらしく、簡単な型式の床の間だった。
泊まった部屋のある建物は多分創業時の建物を修理補修して使っているのだろうと女将の話だったが、この旅館は伝統ある古い旅館と云う認識が薄いのか、古い形式や古い意匠などの建物意匠も室内装飾も殆ど残っておらなかったのは、訪ね泊る目的に合致しなく残念な宿泊だった。でも泊まった部屋の天井の変わった意匠が見られたので良しとしよう。
それとこの舞鶴館の当日の宿泊者は多かったが、宴会の食事以外、少人数の宿泊者には食事提供が無いようだった。
チェックアウト時には、旅館の関係者は誰も居られず、もっと旅館のことを聞こうと思ったが、それも叶わず宿を後にした。翌日になって舞鶴館に電話すると、女将が外出していて申し訳なかったと。そしてチョット聞きますのでと電話を切り、その後わざわざ電話を頂き、旅館建物のこと、旧海軍のこと、軍神 第六潜水艇長 佐々間海軍大尉が新婚旅行で当館に泊まられ、奥様から来たお礼の長い手紙が見せられなかったのは申し訳ない。等々創業当時は旧海軍関係の宴会や宿泊が多く、賑わっていたと聞いていると仰っていた。
(2017.8.13宿泊)


泊まった部屋

泊まった部屋の天井

泊まった部屋から見た廊下

泊まった部屋にある洗面所の入口の扉

別の部屋

別の部屋

入口の銘板

舞鶴館の前景

入口玄関にあった旧日本海軍佐久間艇長の写真と知事からの表彰状

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