米原市
かめや旅館
滋賀県米原市米原617
電話 0749-52-0055

かめや旅館の前景 
左の道は旧北国街道 右の道は中山道への連絡道

かめや旅館の夕景

玄関入口

  旧北国街道沿いの旧米原宿の北端近くに、北国街道と中山道に向かう道の分岐点に今回宿泊した「かめや旅館」がある。
慶長8年(1603)に、現在のJR米原駅辺りに開削して米原湊が開かれ大変栄えた。米原湊の発展を支えたのは、中山道の馬場宿から米原に通じる道路が開かれ、中山道の荷物を米原湊が扱ったことによる。中山道や北國からの荷物が米原湊から琵琶湖水運で大津・京都に向けて、又その反対の荷物も活発に移動し米原の繁栄をもたらした。
米原は宿場町より湊町として発展した町である。宝永元年(1704)の米原絵図によると高札場から北に進むと街道が分岐し、左側は北国街道、右側は中山道馬場宿に向う道である。
明治22年に湖東鉄道(現JR東海道本線)が開通し、米原駅は北陸線との分岐駅として重要な位置を占め、鉄道の町として発展していった。
町並は現JR米原駅の東側で旧北国街道に沿って展開している。伝統的な様式の町屋が並ぶ景観は旧宿場町当時の面影を色濃く残している。宿の北端「かめや旅館」の角には弘化3年(1846)建立の道標が建ち、それには「左北陸道 右中山道」と刻まれていた。
「かめや旅館」は明治22年の現東海道線の米原駅開設に合わせて商人宿として開業したものである。
建物は昭和48年に改築されたもので、比較的新しいものだった。
商人宿としての営業に徹しているためか、殆どの客室を見せて頂いたが、床の間のある部屋はこの泊った部屋しかなかった。宿泊予約時には玄関上の街道に面した部屋とお願いしたのだが、旅館に着くと奥へ奥へと案内される。街道に沿った部屋をお願いしたがと云うと、2階の部屋は準備するのが大変で!!とのこと。
夕方に部屋の電気を点けて、外観の写真を撮らして欲しいというと、快く承諾を願い奥の部屋に落ち着く。
後で判ったことだが、この旅館は女将一人での切り盛りで、食事が部屋食になっているので、2階まで食事を運ぶのが大変だからとその理由が判った。
玄関に黒くなった板の看板が3枚飾られている。右から「かめや旅館」の看板、中は富山の置き薬業者の団体の、左は大和の置き薬業者の看板とのことだった。
玄関から続く廊下の上には小さな提灯が並んでいる。先代(生存で元気な母親)が全国を廻り集めたものだそうです。埃が被るので掃除が大変とのことだった。
米原宿で有名な石の道標は「かめや旅館」の前に立っているが、最初は今よりももっと右側の道路上に立っていたそうです。車が当たり道標が折れたので少し内側にしても、又折られてしまったので、旅館の敷地内になったと宿の主人が話されていた。写真を撮るのに鉄柱が邪魔と云うと、車が当たるのでとの返事。
「かめや旅館」で一番驚いたのは、風呂とトイレが最新のものになっていたこと。この様な伝統的な旅館に泊る場合は真夏で汗をかく時期以外は大体風呂に入らないのですが、この宿では宿泊者が他にいなかったこともあり、湯船につかって長い間妄想にふけっていたのは私にしては珍しいことだった。
(2015.11.20宿泊)  


宿泊した部屋

玄関から続く廊下

大和・富山の置き薬屋さん指定旅館の看板

廊下から玄関を見る

入口直ぐの階段

左 北国街道 右 中山道への連絡道の石の道標

中庭

町並の中のかめや旅館 中央の道は旧北国街道

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