俵山温泉
泉屋旅館
山口県長門市俵山5139
電話 0837-29-0231 

泉屋旅館の前景

夕景

泉屋旅館の入口

 俵山温泉は長門市街から南西に約12km、瀬戸内海に流れる木屋川の最上流に位置する古くからの温泉である。
萩藩主もしばしば湯治しており、藩主入浴のため建てられた御茶屋や湯宿を中心に湯町は栄えていた。安政6年(1859)では湯宿27軒の年間客数の合計は13,756人にのぼり、昭和23年俵山温泉は国民保健温泉地に指定され、昭和56年には環境庁から国民健康温泉地として指定されている。
昔からの湯治場の雰囲気が強い温泉地。近代的な大きなホテルが無く、欲衣姿の湯治客が細い道を歩いている昔のままの湯治場で、内湯のある旅館は無く入浴は全て外湯。細い一本の道路に沿って温泉旅館が並んでいる。木造2階建てや3階建ての建物が連なる中に泉屋旅館がある。
大変交通の便の悪いところで、山陽本線小月駅から約一時間バスに乗ってやっと着いた。表の道に面した部屋と希望していたが、案内された部屋は2階の奥の庭に面した部屋。表の部屋と希望したがと云うと、良いですよと表の部屋に案内してくれたが、受け入れ準備をしないとダメなので、奥の部屋での宿泊とした。
泊った部屋は2階と思ったが、窓の外をみるとそれ以上に高い。後で庭に出てみると3階建ての建物の最上階で、入口玄関が2階に相当する建物だった。この泉屋旅館は表の間口は小さいが奥になると横幅も奥行きも大きな旅館で、客室は全部で21もある大旅館だった。道に沿った上段とその下段からなる敷地に建物が建つ。下段に建つ棟と道に沿った上段とその傾斜地に建つ棟が複雑に繋がる旅館建物であった。
俵山温泉は湯治場として1100年の歴史があるので、泉屋旅館も創業は判らないそうで、多分江戸期だろうと思われるが、設立は明治元年とのことだった。江戸期に一度焼けたようで、一段低い谷側に石垣を積んで、木造3階建ての建物が建てられたのが、大正末から昭和初年にかけてのこと。道に面した建物の一階に江戸期の建物の一部が残っているとの御主人の話だった。
この泉屋旅館の各部屋には全て床の間が備わっている。湯治場の旅館の中でも高級な旅館だったのだろう。開いている客室は見て頂いてもいいですと許可を得たので、2~3の部屋を見せて頂いたら、どの部屋も何時でも宿泊可能の綺麗な状態に保たれていた。多くの旅館では机が立てかけられたり、寝具が積まれていたりしているので、何時も宿泊可能な状態を保つのは大変な努力をされているものと思う。
お世話いただいたのは従業員と仰る女性の方で、夕食後の対応はご主人で女将など他の方は見かけなかった。
俵山温泉は外湯浴場で各旅館に内風呂がない。当然外湯に行くのだが、泉屋旅館の近くに共同浴場の「町の湯」と「白猿の湯」がある。旅館宿泊者は無料で入れるものと思っていたが違った。それも「町の湯」は一回480円、「白猿の湯」は一回850円とある。町の風呂屋さんやスーパー銭湯はその位の価格だが、旅館に風呂が無いので町の風呂屋にと一回一回料金を払うのには抵抗を感じ、480円の「町の湯」に一回入っただけで帰ってきた。多くの温泉場で外湯浴場が残っているが、温泉手形等を発行していて、どの外湯に何回入っても無料で入れる。全て旅館が負担していてその温泉手形が成り立っているのだろう。その負担分を最初から宿泊料に上乗せしてもらえば、宿泊者は気持ちよく外湯に浸かって、心癒されて帰途に着けると思った。
チョット苦情になってしまったが、遠路遥々遠くに来た甲斐があり、温泉はちょっとヌルットした感じの素晴らしい温泉で、鄙びた感じの温泉情緒を楽しめたので感謝すべきでしょう。
(2019.6.20宿泊) 


泊った部屋

別の部屋

別の部屋

階段など複雑な建物の繋ぎ目

入口玄関

玄関横の階段

階段と廊下

玄関入り口を内側から見る

下の階は玄関よりも一階下の部分(経営者の居住部分)

庭から見た建物全体像

夜間の入口玄関(箱で燕のフンを受けている)

奥の別棟の一階には土蔵が

泊った部屋から見た庭

奥の別棟2階から見た本館

泊った部屋の天井(船形になっている)

泉屋旅館前の道路(夕景)

旅館の裏側から見た夕景

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