備前市
えびすや
荒木旅館
岡山県備前市西片上1280
電話 0869-64-2004 

えびすや荒木旅館の前景

  旧山陽道片上宿の街道筋に面して「えびすや荒木旅館」がある。江戸時代には片上宿として栄え、本陣・脇本陣も置かれていた。慶応元年(1865)の記録によると西片上村と東片上村を合わせた家数508軒のうち宿屋は361軒もあった。
片上港は備前焼や年貢米の積出港としても栄え、特に西片上には岡山藩の米蔵が置かれ、この辺りの年貢米を収藏し、ここから船で大坂の備前屋敷へ積み出されていた。
「えびすや荒木旅館」は元々の屋号を「えびすや」といい、江戸期には米の廻船問屋として繁栄していた。
今の若女将で20代目だそうで、説明して頂いたのは19代目の大女将。
米の廻船問屋「えびすや」には文化人が集まる要素があったのだろう。備前焼の作家や北大路魯山人なども訪ねている。幕末期から明治期にかけての混乱期に、大名に貸した金は返ってこない、藩の年貢米も無くなり、米の廻船問屋も遣っていけなくなり、手っ取り早く文化人が集まっていたのを利用して料理屋になったのだろうと大女将の話。
屋敷は2反(約1800㎡)もあるという「えびすや荒木旅館」間口は約20メートル少々と狭いが、奥行きは80m近くもあるようだ。今は奥を駐車場として利用されているが、大正時代まではそこまで海だったとの話にはビックリ。500m程先まで埋め立てられたようだ。
案内されたのは魯山人が滞在していたという部屋。床柱は栃の木、天井は屋久杉と贅をつくした部屋だった。そして部屋の前には籠置きの平らな石まで備わっていた。
大女将に頼んで、大広間や中広間も見せて頂いた。大広間では正面の舞台では美空ひばりや島倉千代子がディナ―ショーを行ったという。大広間の後ろ部分に3代分のお雛様が飾られていて、その上には釧雲泉が寛政4年(1792)に描いた片上八景の古びた額が飾られていた。また、欄間には井波彫刻の彫り物が備わっていた。先代から美空ひばりが公演したなどと宣伝に使うなと戒められていたとの話。
この大広間の横の廊下に、昔の電話ボックスが設置されていた。中にはご丁寧に当時の手回しと、壁に取り付けられた送話口のある電話機までも設置されていたが、飾りの様だった。元々は玄関近くに在ったものを、ここに移転したという。
中広間は水戸黄門のロケにも使われたようだが、幕末期の殿様や武士などが今この場に集まっていても不思議でない雰囲気を漂わせていた。
館内のあちこちにあるガラス戸には明治期の歪ガラスが備わり、外の景色がユラユラと揺らいで見える。
中広間横の廊下には大きな歪ガラスが備わった窓があったので、国産では無いのではと大女将に言うと、これはフランス製とのことだった。
どの部屋からも庭が見える様に、あちらこちらに小さな中庭が造られていて、その庭には古備前焼が置かれている。今ではこれほどの古備前焼は少なくなったとのことだった。
南側の中広間の廊下から見ると、旅館建物は大変複雑な構造になっている。大女将に複雑な構造だから雨漏りは大変でしょうと問いかけると、絶えず何かしら補修や改修をしているとこことだった。
何せ伝統ある米の廻船問屋がそのまま料理旅館になったもので、いろんな古いものが見られる。槍を置く設備・陣笠、江戸期と云われる長い廊下、チョンガで削った柱、古備前の焼物は至る所に。中庭の先にあった土蔵に入口通路が無い?? 津波に備えてか、鼠除けか梯子をかけて中に入るとのこと。
泊った当日私と言葉を交わしたのは、大女将・若女将・若女将のご主人、そして20歳前位の男女の子供たちだった。
入口玄関に飾られていた雛飾りはこの20歳前の女の子のものだそうです。
(2016.3.15宿泊)


泊った部屋 魯山人の泊った部屋らしい。栃の木の床柱・屋久杉の天井だった。

大広間の舞台

大広間の雛飾りと釧雲泉が寛政4年(1792)に描いた片上八景の額

泊った部屋の前の廊下、歪んだ明治のガラスであった

土蔵の前の古備前焼き 今では珍しいものです。

延々と40mほど続く廊下、大女将が江戸期の廊下と仰っていたが、多分明治期でしょうね。

南側の裏玄関にあったドラと撞木

南側の裏入口の焼き物

廊下の立派な柱、大女将に立派な柱ですが、横の洗面台がなければもっと良いのですがと言うと
洗面台を置く場所が無いので!!

中広間の床の間

一番南の中広間から見た複雑な構造の荒木旅館
一番奥方の小さな屋根二つ以外は全て荒木旅館の建物

一番奥の中広間の廊下、この大きなガラスも歪になっているが。
大女将によるとフランス製で、吹いた跡がここにあるでしょうとの説明。
そう云えば一枚一枚に小さな傷があった。

朝食を食べた部屋

朝食を食べた部屋には槍掛けと陣笠が飾られていた。

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