足助町
玉田屋旅館
愛知県豊田市足助町西町36
 電話 0565-62-0170

玉田屋旅館正面

玉田屋旅館正面夕景

玉田屋旅館入口玄関

  三河から伊那谷を通って信州へ至る道は、伊那街道(三州街道)と呼ばれ、江戸時代にはこの伊那街道は中山道の脇街道として栄え、長野の善光寺詣りをするものが多く通ったので、善光寺街道とも呼ばれた。伊那街道は中馬といわれる物資輸送の馬が多く往来し、中馬街道とも呼ばれた。
この街道に中馬が頻繁に通った理由は、中山道が五街道の一つとして、大名の参勤交代などの通行のため規制が厳しく、物資の輸送には面倒なことが多過ぎたからである。この街道で運ばれた物資の中で、最も重要なものが塩である。特に伊那地方の人々にとって、三河からもたらされた塩は日常生活で絶対に欠くことのできない必要物資であった。このためこの街道は「塩の道」とも呼ばれた。塩の中継地として足助の果たした役割は大きい。
知多湾沿いや渥美湾沿いで焼き出された三河塩は、海上から矢作川をさかのぼり、さらに支流の巴川に入って現在の豊田市岩倉町辺りで陸揚げされ、馬で足助の塩問屋へ運ばれた。足助からの中馬街道は険しい山越えの道であるので、まちまちに詰められていた塩俵の重量を統一するために、俵を足で踏みしめて詰め直す「塩ふみ」が行われ、「足助塩」とか「足助直し」と呼ばれた。江戸時代の後半の天保年間(1830~44)には、足助の町に塩問屋が14軒あったという。
玉田屋旅館も中馬の宿泊するための旅籠だったと思われる。建物は江戸末期の建物で、当初は切妻造り妻入りの建物だった様だが、後の改造で正面が入母屋、背面が切妻という個性的な建物になった。前面には千本格子が備わり、入口の框や階段はその後の改造のようであるが伝統が受け継がれた建物。
街道筋の旅籠宿は、参勤交代の上級武士も泊めねばならないので、床の間などの装飾部分も立派に造られることが多かった。しかし、この足助は塩の道と呼ばれる中馬街道の中継点で物資輸送が多く、武士の往来が無かったので、旅籠の造りは立派にしなくても良かったのだろう。床の間や欄間の造りなどの装飾品は重要視されてないようであり、実用的な造りになっているのが特徴と思える。
玉田屋旅館はおばあさん一人で切り盛りされている旅館で、高齢と共に廃業の道を辿る心配がある旅館だった。
高校生くらいの孫が、夜間前の道で野球のバットの素振りを繰り返していたが、私の顔を見て挨拶する礼儀正しさだった。後を継いでくれたらと思った宿泊でした。
(2015.1.27宿泊)

玉田屋旅館正面入り口、趣ある玄関入口

通された小さな部屋、敷かれた布団の上には私のコートが。小さな窓が一つだけ。

玉田屋旅館の夜景

玉田屋旅館の入口に有った木製の灯篭
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玄関入口に置かれていた提灯、横の台の様なものは古い冷蔵庫でしょうね。

泊った部屋の障子(多くの継ぎ剥ぎが)
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