金沢市
すみよしや旅館
石川県金沢市十間町54
電話 076-221-0157

すみよしや旅館の前景

すみよしや旅館の夕景

玄関入口

  徳川幕府最大の加賀120万石、金沢の中心地尾張町にあった「住吉屋」は、江戸末期に少し離れた当地(十間町)に移転してきました。それからでも150年、金沢市でも最も古い創業370年という歴史を持つ旅館です。創業は寛永15年(1638)とのことです。
天然の防衛線である、犀川と浅野川の二つの河川、新しく掘られた堀、卯辰山寺院群・寺町台寺院群・小立野寺院群を町の周辺に配置した防衛網で金沢市内は守られていた。城下町の町家の数も、寛文4年(1664)に9878戸・55106人。明治3年17222戸・56295人であった。明治4年には武士・寺社を含め総戸数24744戸・123363人と記録されている。これは江戸・大坂・京都に次いで第4位の大都市で、都市としての規模も大きかった。
加賀藩は120万石の大藩であるが外様大名であり、幕府にとっては油断できない存在であった。徹底した文化政策をとり、平和と文化に徹する姿勢を示すことによって幕府への忠誠を示したのである。
さて、「住吉屋」は江戸時代加賀藩に代わり、通行証「手判」の交付を行っていました。これは信用ある城下の宿屋7軒に「手判」の交付を代行させていたもので、現在残っているのは「すみよしや」一軒だそうです。
現在の建物は江戸末期に尾張町から移ってきたときに建てられたものを、手直し・修復・改造を繰り返しながら今に至っているとのこと。当初宿の入口は、今の正面左側端だったそうで、入口玄関部分の天井の構造材の松の梁が、2階の談話室の上部に見られ、更にその上には明りとり用の天窓も備わっている。
享和3年(1803)に全国を測量して日本地図を作製した伊能忠敬一行が宿泊した記録が残っているので、多分今の赤壁の間にも泊ったと思われる。
この「すみよしや旅館」に宿泊したのはWEB集団「いらかぐみ」の面々7名で宿泊したもの。テキパキした若女将の笑顔で出迎えて頂き、瞬時にして和やかな雰囲気になったのは、若女将が持つ天性の人との付き合い方だろう。宿泊している間寛いだ気分で居られたのも、若女将の気配りの賜物と思える宿泊だった。
(2015.6.13宿泊)

泊った部屋

泊った部屋

旅館正面から見た左側部分の骨組 松の梁

客室の控えの間との間の欄間

この客室には欄間が無かったが額が掛かっていた

明り取り用の天窓を下から見ると

中庭
 
欅の一枚看板

客室に置かれていた小さなマッチ箱

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