阿賀野市出湯温泉
清廣館
新潟県阿賀野市出湯802番地
電話 0250-62-3833

清廣館の前景

清廣館の夕景

清廣館の入口

 出湯温泉は開湯が809年(大同4年)と云われ、新潟県最古の温泉と云われている。既に鎌倉時代には幕府に温泉税を納めていたようです。
江戸中期には出湯では寺湯があり、民宿的な湯治宿があったようで、江戸末期には華報寺門前に旅籠宿が軒を連ねて、門前町の様相の温泉街ができていた。
この地の江戸期は幕府直轄領で、当時既にあった漲泉窟(現華報寺共同浴場)が、江戸期の終わりと共に幕府から払い下げられた。源泉の周りの家々7軒が「七軒衆」と云う組織をつくって、源泉を引き継ぎ、華報寺が代表で管理し、「七軒衆」が温泉業を営む権利を持つことになった。清廣館(当時は兼清といった)はその内の一つである。
その後も湯治場として賑わっていたが、温泉は漲泉窟(華報寺共同浴場)で、各宿は温泉を持っていなかった。各旅館が源泉を所有し出したのは、昭和40年頃からであり、清廣館もその頃と思われる。
又その頃、隣の月岡温泉が近代化に邁進しているのを横目で見ながら、出湯温泉を含む五頭温泉郷は観光開発も無く、のんびりとした田舎の温泉として、地元客中心の温泉経営であった。

JR羽越本線水原駅前から阿賀野市営バス(新潟交通バス)で約20分、出湯温泉ロータリーに着くが鄙びた小さな集落のバス停。小さな待合室が設えられているだけでも立派なもの。出湯温泉の案内地図で清廣館を確かめて、歩くこと4~5分で到着した。
出迎え、案内してくれたのは若い女将??。私の訪ねるような古い伝統的な建物の旅館では珍しいので、女将さんと尋ねると、女将はお母さんだといい、大女将も健在だと言う。そしたら若女将ですねの言葉に違うと言って、案内されたのは二階の正面入り口が見下ろせる部屋。
訪ねた清廣館は木造3階建ての建物で、昭和3年の建築。創業年は不明だが、宝永4年(1707)の宿の記録が残るそうだが、今が何代目かは、お寺の過去帳が火事で焼けてしまい判らないようです。
館内の案内を若女将に願うと、チョット聞いてくると、女将に聞きに行き OKだと案内して貰った。
宮大工が丹精込めて造ったそうで、部屋の意匠はそれぞれが異なっているようです。サツキの床柱、モミジの床柱、ケヤキの一枚物の床板、五葉松の欄干手摺、長押の木目の細やかさ、そして高い天井の部屋等々。ここまで高い天井の旅館は珍しいと思う。国の登録有形文化財に指定された建物。
客室は2・3階で風呂(温泉)と食事場所は1階だった。温泉はかけ流しで、檜のお風呂ですが、源泉の湯量が少ないようで湯船の底から、加熱されたお湯が少しづつ出ていた。料理は女将が担当されているようで、近くの山で採れた山菜など、地元で採れたものをできるだけ多く使うようにしていると仰っていました。
接客を担当しているのは若女将??ですが、女将は一度料理を運んでくれた時に顔を見ただけでしたが、チェックアウト後、宿を出るときに偶然大女将と出会い、軽自動車を運転しておられたが、降りて来られて、丁寧に挨拶をして頂き、好印象で宿を後にすることができたのがよかったです。
6軒程しか旅館がない出湯温泉、大型開発も無くて、巨大旅館がない鄙びた温泉地ですが、この姿が続くのが良いのか、開発の波に呑まれるのが良いのか、思いめぐらせる宿泊でした。
(2018.5.8宿泊)

泊った部屋 モミジの床柱、ケヤキの一枚ものの床板

泊った部屋

泊った部屋から見た清廣館の一部

泊った部屋

泊った部屋から見た景色

別の部屋 皐月の床柱 ケヤキの一枚物の床板 床の間の上部の意匠 明り取りの意匠

別の部屋の意匠

別の部屋の意匠

別の部屋の床柱(皐月)

別の部屋

別の部屋から見た清廣館の一部

館内の廊下 欄干手摺は全て五葉松

階段 欄干手摺は全て五葉松

階段

風呂(温泉)

ロビー

夕方の正面
 
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