美濃市
岡専旅館Ⅱ(動画)
岐阜県美濃市魚屋町2190-1
電話 0575-33-0140

外観

通路・庭


部屋

廊下

 美濃市は美濃和紙と「卯建」で名の知れた町である。
金森長近が小倉山(上有知)に城を築き、城下町として現在の町並みを造り、目の字形の町筋が今にそのまま残っている。
金森長近により紙専門の六斎市が開かれて以来、この地方の物資流通の要所となり、美濃和紙の集散地として栄え、城下町から和紙中心の商業町へと転換して行った。
美濃の商人たちは富みの蓄積とともに、防火用の卯建を揚げた家屋を建てたが、明治期になり防火よりも豪華さを競う卯建に代わってきた。
そんな中の一つに岡専旅館の建物のがある。比較的意匠の混んだ卯建が2本揚がっている。
玄関棟(母屋)の中の土間を奥に進み中庭に出て、土蔵の前を進んで泊る建物に着く。旅館の離れ部屋に案内された感じだが、客室全てが離れ状態の部屋で靴のままの移動だ。
普通の旅館建物とは異なる特異な旅館建物であった。女将にそのことを言うと、本家の呉服商だった岡重助家から分家(岡専助)したのが文政元年(1818)で、今で7代目。元は塩問屋をやっていたそうで、入口から入った左側の建物(土蔵や部屋)は全て塩問屋時代の塩蔵や使用人の部屋だったという。
塩問屋時代の建物と中庭を隔てて、土蔵と客室棟が通路右側に建ち並び、その奥にも建物が建っている。何処まで奥に続くのという感じで、60m~70mもあると思われる。
道に面して卯建の揚がる母屋や塩蔵や使用人部屋などは、江戸末期から明治初期の建物のようだが、客室に使われている建物は大正末期から昭和初期の建物のようだった。塩問屋から旅館業になった時期は不明だが、建物の状態から大正末期から昭和初期に建物が建てられた頃と思われる。(憶測の域)
客室廊下の窓ガラスは歪のため像がユラユラしているが、明治末期のカラスと違い、ユラユラの幅が大きく大正末期から昭和初め頃のガラスと想像できる。
この岡専旅館は2年程前から、6代目女将の高齢化により休業されていたが、若女将が勤めておられた会社の定年退職後に7代目女将になられたもの。
旅館は女将一人で切り盛りされているようで、ご主人は現役のサラリーマンとのこと、
今回泊ったのは、WEB集団「いらかぐみ」の第17回目のオフ会のためで、6名の参加者での宿泊だった。
この岡専旅館さんに泊るのが目的のようなオフ会になってしまったが、参加者の多くが今迄で一番印象に残る良い旅館と言っていたが、私もその通りだと思う。女将や動員されたご主人が、我々宿泊者を精一杯持て成そうという感じがひしひしと伝わり、ほのぼのとした心癒される雰囲気だった。
また、女将が特別室と言っていた2階の角部屋は素晴らしい部屋と思う。旅館到着時の休憩所と夕食後の懇親会用の部屋に、そして朝食会場にと何回も使わせて頂き感謝感謝。
これから本格的に旅館業をやられるでしょうが、重伝建に選定された観光客の多い地域と、卯建の有る旅館を売り物に何時までも旅館が繁栄するように祈りながら、女将に見送られて宿を後にした。
(2019.5.25宿泊)
 
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