福島市 飯坂温泉 |
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なかむらや旅館 | ||
福島県福島市飯坂町字湯沢18 電話 024-542-4050 |
なかむらや旅館前景(江戸館) |
なかむらや旅館全景(土蔵の右が江戸館、左が明治館) |
夕景 |
玄関入口(框の下の引き出しに下駄が入っていた) |
福島市の奥座敷、飯坂温泉は宮城県の鳴子温泉・秋保温泉と共に奥州三名湯に数えられる。 元禄2年(1689)には松尾芭蕉も泊っていて、もうその頃には既に温泉地をして体裁が整っていたようだが、内湯は見られず点在する外湯で湯治するスタイルだったと思はれる。 飯坂温泉が知られるようになったのは、江戸中期の享保年間(1716~36)頃からで、各街道が整備されたことにより多くの人々が湯治に訪れるようになった。 「なかむらや旅館」の創業は明治24年創業とある。なかむらや旅館の初代創業者が現福島市街の南西にある土湯温泉で旅籠宿を営んでいたが、度々の洪水に見舞われ、ここはダメと飯坂温泉の今の地にあった「花菱屋」を買い取り旅館業を創業したもの。その当時の建物が今の「なかむらや旅館」の江戸館で、その後の明治29年に建てられた建物が明治館である。 玄関を開けると、格子の衝立・大時計・大福帳等がみられ、囲炉裏も備わった空間だった。一気に江戸・明治時代に入ったよう。 予約時に一人の宿泊だが床の間のある部屋と頼んでいたので、通された部屋は明治館の2階部分の2室だった。でも使われるなら隣のもう一部屋もどうぞということで、2階部分の全て3部屋の襖を開けての使用となった。10畳+10畳+8畳とあったが、広すぎたので10畳+10畳の部屋のみを使用した。 江戸館の部屋も見せて頂いたが、明治館の部屋に比べて簡素な意匠の部屋で、床の間も簡易なものだった。 建物全体が国の登録有形文化財に指定されていて、凝った建築意匠が各所に施されていた。特に江戸館と明治館の接続部分には多くの凝った意匠の装飾が備わっていた。吊り下げたような階段・階段や廊下の手摺の意匠・その場所にあるトイレ関係の意匠は素晴らしいものがある。トイレの天井には驚く。折り上げ格天井という非常に格式の高い天井様式だそうです。 驚いたのは2階廊下の一部が、土蔵と江戸館の漆喰壁上部の反り返った部分だったことである。そういえば1階廊下も片方は土蔵の外壁だった。 応対して頂いたのはこの場所に移転してから数えて7代目の女将で、ご主人も健在でしたが、料理などは8代目の息子さんが主に担当していると話されていました。 泊った明治館は柱が全て欅だったと思う。梁は意識してなかったので判らないが多分欅だろう。そして3部屋とも、又廊下の釘隠しの意匠がそれぞれ異なるので、女将に訊ねると、第2次大戦のときの鉄の供出で本来の釘隠しが無くなった。その時に、明治館の雨戸が鉄製だったので見つかったら大変とヒヤヒヤしたが、見つからずに済んで助かrはしったと仰っておられた。その後、余りにも開け閉めが重いので、トタン板張りにしたが、それでも重いので今は殆ど開けないとのことで、どんな写真をみても、「なかむらや旅館」の明治館の窓は開いてない。私が泊った時も、一枚だけ開けて頂いたのが写真に見られる。 温泉地の旅館に泊っても、殆ど温泉に付いては記載しないが、この「なかむらや旅館」の温泉も、斜め前にある鯖湖湯(共同浴場)の温泉も熱くて入れなかった。後で聞くと同じ泉源だそうで、湯船の温度が46℃程とか。 慣れた方は悠々と温泉に浸かって居られたが、高齢で心臓に不安のある身だから、無理して熱い温泉には入らなかった。 (2018.8.28宿泊) |
泊った部屋 |
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泊った部屋 |
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泊った部屋の反対側の床の間 |
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泊った部屋の外側の廊下 |
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入口玄関から2階への階段 |
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奥の階段 |
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2階への階段、柱の下部が無い |
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一階の廊下、片側は土蔵のナマコ壁 |
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階段 |
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階段の意匠だが、3階には上がれなかった |
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1階廊下の装飾品 |
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2階への階段から見た便所 |
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左側は土蔵の壁 |
江戸館の部屋 |
江戸館の部屋 |
江戸館の部屋 |
便所の扉 |
便所の天井 |
江戸館からみた鯖湖湯(外湯) |
左は土蔵の扉 |
2階廊下(左側江戸館の壁・右側土蔵の壁) |
廊下での表示板 |
釘隠しは部屋によりバラバラ |
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釘隠しは部屋によりバラバラ |