大野市 |
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旅館三浦屋 | ||
福井県大野市明倫町11-13 電話 0779-66-2505 |
旅館三浦屋の前景 |
旅館三浦屋の夕景 |
玄関入口 |
大野城下町は藩主土井利房と次の金森長近により、亀山山麓の武家屋敷、中央部に町家、その東部から南部にかけて寺町という城下町を完成させたと云われるが、街路だけを碁盤目状に区画して縄張りされたものであったのだろう。商家や寺院が建ち並び、城下にふさわしい都市の形になるには、数十年から百年はかかったであろうと思われる。 今、大野市の七間朝市は輪島や高山のように賑やかでないが、七間通りにポツンポツンと5、6人の近郷農家のおばさんが花や野菜を並べている、売るために加工した商品でなく、その朝のとれとれの野菜などであって、これが昔からの朝市の姿なのかも知れないと思う。 町の東から南にかけて配置された寺町には、お寺がずらりと南北に並び、その南東部少し西に天保年間(1830~44)創業と思われる三浦屋旅館がある。 希望した六間大通りに面した部屋には泊めてもらえなかったが、庭に面した一階の部屋に案内された。北陸山間部の雪国のため、既に頑丈な雪囲いが施されていて、部屋から庭は良く見えなかったのは残念。玄関棟や左手の建物は昭和初期に建てられたもので、修復・改修しながら今に至っているとのこと。初代が天保年間の1840年頃に創業したようで、お寺の過去帳に残っているとのことだった。古い旅館で近くの俵屋旅館さんに泊ったことあるがと話しかけると、うちの方が古いのですよと仰った。 三浦屋旅館さんは、今の女将で9代目だそうで、10代目も11代目も医者になってしまったと云って居られたが、10代目の若奥様が少しは旅館を手伝っておられるようだった。 この三浦屋旅館の昭和初期の建物には凝った意匠の造作が見られ、随分と手の込んだものだった。一階の部屋では屋久杉の天井が、主客の部屋の天井の木目の方向と、控えもの間の屋久杉の木目の向きが異なる。主客が控えの間での芸妓の踊りを見るときに、その天井の木目を強調するためらしいとご主人の説明。京都などの一流料亭では昔この様な天井が普通だったとの説明でした。そして欄間の彫刻の繊細さ、凝りに凝ってトイレ入口の引戸までも見事な彫刻が施されていた。 女将と話をしていると、東京で会社勤めをしていたご主人と結婚し、旅館の女将になるなど思っても見なかったが、30年程前に先代から料理旅館を引き継いだとのこと。 旅館の建物の間際に塀があるので、チョット不自然に思い、道路拡張でこのように塀が中に入り込んだのですかと聞いても、道は昔から広く建物は後ろに後退していないそうだが、どう見ても道路拡張で塀が後退したとしか思えない。昔から馬車道で、桜並木だったのが、欅の並木になり、今では電柱が地中化されてすっきりとしたそうです。 三浦旅館の右隣に大きな建物があり、同じ三浦屋との表示がある。隣の建物もうちのものだが、旅館には使っていないそうで、かっては別の商売に使っていたそうだが、聞いたのですが失念してしまった。 女将の話で、芸者・舞妓・芸妓や今のコンパニオンも含んで面白おかしく話して頂いた。 この辺りは豪雪地帯で、庭には屋根の雪も落ちて4m近くも積り、4月半ばまで雪が残っているそうで、冬はスキー客など宿泊客は殆ど取らないと仰っておられた。 当日宿泊したのは私一人で、夕食も朝食もなく、宿で食事場所を聞いて食事に出たが、暗くなれば閉店されてしまい食事するところがなく、コンビニも見当たらず、随分苦労してやっと探し当てた店も、私の食事中(午後6時頃)に閉店準備をされていた。コンビニ弁当でも持ち込めば苦労しなくて済んだのに。 (2016.12.4宿泊) |
泊った部屋 雪囲いに覆われていた |
一階の格式ある客室 |
欄間の模様、繊細な造りであった |
2階の部屋 |
2階客室の欄間 |
何気なしに見過ごしていたトイレの入口の模様 |
一階客室の屋久杉の天井、この部屋は天井の木目が床の間に向かっているが、 欄間で仕切られた隣の部屋は屋久杉の木目が床の間と並行であった。 |
昭和初期の建築のままの階段 |
この階段は比較的新しそうでその奥に談話室が広がっていた |
泊った部屋の雪囲いの間から見た前の庭 |
庭に出て泊った部屋を見る。雪囲いの奥 |
建物群は全て三浦屋だそうですが、旅館として使われていたのは左側の半分ほどでした。 |