南木曽町 大妻籠 |
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まるや | ||
長野県南木曽町大妻籠1477 電話 0264-57-3117 |
まるやの正面 |
まるやの夕景 |
まるやの夕景 |
南木曽町大妻籠は妻籠宿の南にあり、妻籠宿保存地区内の一地区である。妻籠宿保存に端を発した国の重要伝統的建造物群保存地区選定の一番乗りの妻籠宿。大妻籠は江戸期中山道が通る妻籠村の一集落だったが、宿場では無く、比較的農地に恵まれた中山道沿いの小さな集落だったと思われるが、今は妻籠宿の重要伝統的建造物群保存地区に含まれている。 とは言え馬籠峠を控えた難所だから、農業・林業を主にした小さな寒村ながら旅籠屋も存在していたのだろう。そんな中に寛政元年(1789)創業という旅籠宿の「まるや」がある。両隣とも大型の袖卯建を備えた出梁造りの立派な建物。この連なった3軒の民家を見るだけでも値打ちがある光景。 「まるや」に着き、障子になった潜り戸を開けて中に入ると薄暗い中に囲炉裏があり、傍に先客の夫婦連れと思われる方がおられる。大きな声で「こんにちは」と声を掛けても返事がない。仕方なく入ってきた潜り戸を開けて外に出て、宿の外観や近所の写真を撮っていると、銀行員らしき方が宿から出てきて車で帰って行った。再び中に入り声を掛けると年配の女将と思われる方が出て来られ、先客を部屋に案内された。暫くして女将が現れ、そこにお茶があるので飲んで下さいといって奥に引っ込まれたまま中々現れない。10分は待ったと思うが、やっと案内されたのは2階の前の街道沿いの3室並んだ真ん中の部屋。一人用の部屋と思われ、床の間は付いてないが、街道沿いだから、夕景写真を撮るには好都合の部屋だった。 随分と待たされた思いがあるが、女将は一向に平気で、気軽に話しかけてくる。まあ、それだけのんびりとした時間の流れなのでしょう。通された部屋はテレビも電話も無いシンプルなもの。写真を撮ろうと部屋から出ると、外国からの宿泊者夫婦が談話室でスマホを触っておられた。私が泊る部屋の両隣の方と挨拶したことになる。両隣の部屋とも宿泊者が揃ったので、夕景の写真は良いのが撮れると期待が膨らむ。 案内願ったのは8代目という大女将だが、その後9代目という若女将が活発に動いて居られた。建物は建築後130年程経つというから明治中期に建てられたものと思われる。入口の囲炉裏の部屋と2階階段上がったところの談話室の天井は構造材が剥き出しで、かっての囲炉裏生活のために煤で真っ黒になった梁や柱は見事なものであった。 夕食は午後6時ということで、食堂には日本人夫婦と外国人(白人)夫婦が居られ、私一人と合わせて5名の宿泊者だった。夕食前にまだ明るかったが夕景の写真を撮り、食事中に期待した夕景の写真を撮りに外に出ると、あれあれあれ雨戸が閉められている。宿泊者が居られるので、期待どおり電気が点いていると思ったが、雨戸が閉められていては何も見えない真っ黒。夕景の写真を撮りたいと宿に伝えてなかったのが大失敗。今更雨戸を開けてとも言えず、夕景写真は諦めた。 夕食後、囲炉裏端でご主人との話が弾み、大女将に声を掛けられ気付いたら午後10時前だった。ご主人は宿とは別に事業を営まれ、昔のこと等もう直ぐ息子に譲ることになっているとのことで、それぞれの奥様が大女将と若女将になって宿を運営されて居られるとのことだった。宿の運営に直接関係されて居らないご主人の話は大サービスで、近隣の昔のこと等を面白く話してもらい、テレビの無い部屋に戻ってどうしようと思っていたのが、嘘のような楽しい時間が過ごせことご主人に感謝、感謝。 (2019.3.22宿泊) |
囲炉裏のある部屋、囲炉裏の火は夕食後入れられたが、横の煙突のあるのはストーブで常に点火されていた。 |
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泊った部屋 |
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泊った部屋から見た中山道 |
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談話室 |
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談話室 |
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食事した部屋 |
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別の部屋 |
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別の部屋 |
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別の部屋 |
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別の部屋 |
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階段 |
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早朝の近隣の光景、中央が「まるや」 |
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囲炉裏の部屋の天井 |
傘が備わる |
笠など |
大女将の先代(7代目)がJRのポスターに |
階段を見上げると |
囲炉裏の縁、 キセルの煙草を叩いたので縁が丸くなっている |
まるやの入口は通常この「潜り戸」から入る |
食後、ご主人(8代目)との団欒 |
廊下 |
まるやを裏側から見ると |
朝は蒲団が干された |
庭 |