伊賀市上野 | ||
旅館薫楽荘 | ||
三重県伊賀市上野桑町1473 電話 0595-21-0027 |
旅館薫楽荘の前景 |
旅館薫楽荘の夕景 |
入口玄関 黒光りする廊下 |
伊賀市上野は天下に名高い伊賀忍者の里 、周囲を伊勢、近江、大和の山々に囲まれた城下町である。 「旅館薫楽荘」のある上野桑町はかって花街としてにぎわっていたところ。 上野城下町の外郭と云うことで「出屋敷」とも呼ばれていた。江戸初期には家数29とあり、年貢を納める村並の扱いを受け、元禄期(1688~1704)以前に城下町に編入されたようで、元禄期に桑町と名称が変ったようである。 江戸後期には桑町と愛宕神社の間に遊郭があったが、何時頃に置かれたかは不明。多分「薫楽荘」もその流れの中の一軒だったのだろう。 明治21年建築とのことですので、賑わっていて7軒~8軒もあった茶屋の一軒だったのでしょう。今は建て替えられた道向かいの大勢楼さんと2軒になっている。明治20年に薫楽荘の前の道ができたので、それに沿って建てられたもの。大勢楼さんの2軒隣に、旅館としての営業は辞められたが、明治21年建築の「いとう旅館」があり、つい最近までは3軒の旅館が花街跡で営業されていた。「薫楽荘」・「いとう旅館」とも新しい道に沿って建てられたと見られ、共に国の登録有形文化財に指定されている伝統ある建物である。 今回訪ねた「旅館薫楽荘」は築118年にもなる明治建物で、本館建物や土蔵が平成23年に国の有形登録文化財に指定された旅館建物。通された部屋は頼んでいた通り、前の道に面した部屋。入ってビックリしたのは襖の文字だった。誰の書なのかは聞き忘れた。格式ある茶屋建物で、お客の通る廊下と、料理などを運ぶ女性が通る廊下が分かれている建物だった。流石に今では外側の狭い廊下を区切って縁側にしている旅館が多いが、薫楽荘では料理を運ぶ廊下をそのまま残し、今のお客が通れないように何か飾り物を置いて「行っちゃだめ」としている。 建物の至る所に意匠の凝った装飾が施されていたり、黒光りする廊下や廊下の先の庭、見事な床柱のある部屋、障子の下板が黒柿の板で、黒い模様が自然に出てくる等など、伝統ある茶屋建物の貫禄が滲み出ている。 旅館の切り盛りは、女将とそのご主人のようである。女将は明るく話好きのようで、この旅館を継いだ経緯の話をして頂きました。その中で10年間程休業期間があったもので、再開する時には消防署が窓をガラスサッシにしないと許可を降ろしてくれず、古いままでの再開を願ったが叶わなかったとの話は興味を引いた。 女将によると旅館の古い建物はなるだけ触らないように維持しているとのこと。そう云われてみれば広大な屋敷に建つ薫楽荘の建物、間口は歩測で約28m、奥行き45mと里道を挟んで10mの合計55m。 薫楽荘の旅館部分の左側は自宅、右側土蔵の奥は新築の自宅と自宅部分は新しいが旅館部分はなるだけ古いまま使いたいとの意向。只、水廻りは今風に改造しておられました。そして奥には庭があり、お稲荷さんが祀られ、別の土蔵もある。当然広い部分が駐車場として使われている。 宿泊した日の同宿者は全部で6名だったが、殆どの方は仕事で泊っているようで、朝食を7時半に頼んだが、その時には全員食事を済ませてもう誰も居なかった。裏側にも入口があり、6名の宿泊者のうち、表の入口から入ったもの3名で、他の3名は駐車場に近い裏口から出入りしていた。 (2016.4.11宿泊) |
泊った部屋 床には変わった木が使われていたが何だか聞くのを忘れた |
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泊った部屋の仕切り(誰の書だろう) |
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別の部屋 床柱は百日紅の木 |
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食事した部屋 床柱は藤の木 |
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廊下 よく手入れされて黒光りしている廊下 |
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廊下 |
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廊下 縁側??(料理を運ぶための廊下) |
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談話室 |
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泊った部屋の廊下(縁側) |
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障子の下部は黒柿の板 自然とこの様な模様が出るそうです |
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旅館裏側の夕景 |
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泊った部屋から見た外の景色 |
如何にも急な階段 |
裏の庭にあったお稲荷さん |
裏庭 |