瀬見温泉
喜至楼
山形県最上町大字大堀988
 電話 0233-42-2011

喜至楼の本館前面

喜至楼本館前面の夕景

喜至楼別館の入口玄関

   最上町瀬見は山形県の北東端、最上郡東部の最上町の最西端、最上川の支流小国川の中流域左岸に位置する。
瀬見温泉は、源義経の北の方(正妻)が亀若丸を生んだ際に、産湯を探しに出かけた弁慶が発見したと云われる温泉で、同温泉には歴代新庄藩主が湯治に訪れている。
小国川沿いを走る最上小国街道(現国道47号線)は瀬見をとおり、新庄城下・羽州街道舟形宿(現舟形町舟形)方面と奥州街道吉岡宿(現大和町吉岡)から仙台方面を結ぶ幹線道路として、多くの人馬が往来していた街道筋に、江戸期の安政年間(1854~60)、宇和島藩の家臣だった侍がこの地に移り住み、湯宿をはじめたのが喜至楼のはじまり。
レンタカーを別館の前に留めて、別館の入口から入ると大女将が対応に出てくれた。古めかしい廊下を通って案内されたのは昭和38年に建ったという新館のトイレ・バス付で控えの間もある10畳程の部屋、立派な床の間もあり申し分ない部屋。だが、宿泊をお願いしていたのは旧街道に面した本館の部屋。
そのことを大女将にいうと、本館の部屋でもよいがと長い階段を降りて、旧街道筋の本館2階部分に案内してくれた。でも、話しているとどうも当日の宿泊者を成るだけ同じ棟の客室に割り当てているようで、客室の移動準備も大変そう、また、私だけ遠く離れた客室にするのもとの思いもあるようでしたので、夕方本館の電気を点けさせてほしい点を受け入れてもらって、準備願っていた部屋に落ち着いた。でもこのトラブルで泊まった部屋の写真を撮るのをすっかり忘れてしまって大失敗。
本館は明治元年の建築と云われる。山形県内で旅館の建物としては最古の建物といわれているそうで、旧街道に面した部分とその奥に、昭和元年の建築部分から成る。本館の入口玄関からは日帰りの入湯客を受け入れていて、本館一階には「ローマ式千人風呂」をはじめとして、「岩風呂」や「ふかし湯」などがある。本館入口玄関部分の壁は各種の装飾で飾られた芸術的な入口玄関ですが、明治元年築ということで補強されたのが鉄骨の剥き出しになったもの。この鉄骨はチョット頂けませんね。木材のカバーで隠すとかして梁に見せる様にすれば、素直に受け入れられるのにとショット残念な改造。
本館左側の1階部分がローマ式千人風呂はじめ各種の温泉施設があるところ。湯治場の雰囲気が残る湯船や浴槽だった。
宿泊客を迎えている入口は別館の入口で、別館は昭和27年建築といい、泊った新館は昭和38年築と聞いた。他にも別棟の建物などがあり、何処までが旅館であるのかもわからない所が多くある大きな旅館で、客室数は50以上はあると思える。
別館入口から右に進む廊下や、本館の廊下・階段等に昔の調度品や火鉢や番傘などが飾られている。
一番大きなものは本館の2階に飾られていた木製の懸魚であった。建物の補修時に取り外して旅館廊下に展示しているもの。
前回訪ねたときには、この喜至楼本館の前が空地になっていて、正面から写真が摂れたが、今は共同浴場が建っていて多くの観光客が日帰り入浴を楽しんでいた。
外に出て温泉街を歩いてみると、湯治場の雰囲気が残る温泉街は落ち着いた様子で、夏の避暑と秋の瀬見渓谷の紅葉時には観光客で賑わうそうであった。
(2016.7.7宿泊)

本館の泊る予定だった部屋だが

新館の泊った隣の部屋、泊った部屋はもう少し大きく控えの間のついたトイレ・バス付の部屋だった
が、泊る予定していた部屋と異なり女将と談判するトラブルになり、写真を摂るのを忘れてしまった。

本館の部屋

本館の客室ですが、夕食はこの部屋で

本館の入口部分、現在は日帰りの湯治客の入口になっていた。

本館内の廊下と階段部分、階段下に見えるのは本館の入口部分。
かって本館に付けられていた木製の懸魚が廊下に飾られていた。

本館の部屋前の廊下、湯治場の温泉建物の様子がよく判る

本館内の廊下

本館内の階段

本館一階の風呂のある部分の廊下、この先にローマ式千人風呂がある。

本館の階段部分

この別館の廊下を通って新館や本館に行く

泊った新館の部屋から見た本館建物。3棟から成っているのが判ります。

喜至楼別館(中央の建物)と新館(右側建物)
宿泊者は別館から入るようになっている。
 
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