安中市 霧積温泉 |
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金湯館 | ||
群馬県安中市松井田町坂本1928 電話 0278-66-0005 |
金湯館の入口部分(本館) |
本館部分の夕景 |
玄関入口(本館) |
群馬県と長野県の県境に位置し、上信越高原国立公園の中の特別地域に金湯館はあります。 JR信越本線横川駅から13km程の距離。中山道の国道18号線で旧坂本宿を過ぎ、群馬県道56号線の終点の金湯館駐車場まで約8~9km程、そこから山道(ホイホイ坂)を登ること約30分で金湯館に到着する。只駐車場から宿に電話すれば送迎車が迎えに来てくれますが、一般車両は入れません。それはそれはビックリする秘湯です。 明治期、霧積山一帯には旅館や別荘など42軒が点在し、軽井沢が開発される以前の避暑地としてその名を馳せていたようで、伊藤博文をはじめとする政治家、勝海舟、尾崎行雄、西郷従道(西郷隆盛の弟)、また文化人では与謝野晶子、森村誠一、岡倉天心、画家の山下観山、山口薫など各界で活躍していた人々が訪ねているようです。 訪ねた時にはJR信越本線の横川駅まで迎えに来た頂いた。国道18号線をその後県道56号線の終点近くまで行き、そこから閉まっているゲートを開けて、一般車両が入れない林道に入って金湯館に向かう。細い曲がりくねった落石が多い林道でも、途中まで何とかコンクリートで舗装されているが、その先は石でガラガラの道。途中で枯れ木が道に倒れていたので、迎えに来てくれた女将が車を降りて枯れ木を取除いての通行。車が道路の端に止まったところの下に金湯館の建物が見える。林道から金湯館までは手作りの階段状の坂道を降る。これは全く登山で山小屋に着いたような感じで、玄関を入っても冷蔵庫と屏風や時計・色紙等が飾られここも山小屋の入口という感じだった。 軽井沢が開発される前の避暑地だったので、政治家・文化人の往来も多く、館内至る所にその資料や写真が飾られている。予約時は部屋のことを聞かずに予約したが、後日問い合わせると平成になってから建て替えられた建物とのこと。古い建物に泊りたいと希望すると、窓が無いですがと本館の角部屋で、伊藤博文らが明治憲法を草案した部屋だという部屋になった。天井はクロス貼りになっていたが、チョウナ削りの大きな梁が剥き出しの部屋だった。 明治17年の創業当時は軽井沢が開かれてなかったので、東京からの避暑地として賑わったそうだが、信越線が開通後は軽井沢に避暑地の座が移り、明治43年に起こった山津波によって、金湯館以外の建物は全て泥流れに呑み込まれてしまい、一軒だけ残った金湯館が、今に営業を続けられている。 山間の一軒宿、続けると云っても並外れた努力が必要だった。電気が通じたのは昭和56年に林道が開通するのと同時だった。明治から昭和11年まではランプだけ、その後はランプと水車による発電、昭和30年からはディーゼルエンジンによる自家発電だったが、夜間の消灯は当たり前だった。 お客様も今の駐車場から約1kmのホイホイ坂を汗をかきながら登って辿り着く宿。当然必要な食料品や物資は全て背負って運ぶしか方法が無かったのです。昭和50年代になっても電気も電話も無い時代。予約も手紙と伝言や里にある連絡所の電話のみ。今から見ると想像もできない現世でない状態だった。 今頑張って居られる愛想よく好感の持てる若女将は4代目で、3代目の女将にも宿の歴史などを熱心に説明して頂きました。今でも水車は動かしているそうですが、当日はなんかの事情か動いていませんでした。 温泉は一分間に300リットルの豊かな湯量を絶え間なく流し、40℃という天然の湯で大変恵まれた温泉で、明礬重炭酸土類を含む無色透明の肌さわりの良い温泉。 当日の宿泊者は私以外に、中山道を歩いているというご夫婦と一緒だった。温泉もよい、山の静寂さや星空も抜群、山菜の食事も良い、歴史ある旅館と心温まる持てなしの宿など良いとこづくめだが、アクセスの難点を克服して、アクセス以上の良い所を求めての宿泊者が多くなることを願って送迎車で送って貰った。 (2019.5.10宿泊) |
本館の泊った部屋、伊藤博文らが明治憲法を創案した部屋 |
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本館の泊った部屋 |
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本館の廊下 |
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入口玄関を内側から見る |
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本館から風呂(温泉)への通路 |
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入口の表示 |
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遠くから見ると |
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夕方の本館 |
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大女将から頂いた資料の数々 |
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送迎車からこの道を降りて本館に |
玄関の天井 ランプが |
何時も流れている温泉 |
温泉への廊下 |
今は飾りの水車(時々廻されるようだ) |
本館の階段 |
昭和34年の金湯館 |
昭和12より水車で発電していた。 |