立科町
芦田宿
金丸土屋旅館
長野県立科町芦田2626
電話 0267-56-1011

金丸土屋旅館の前景

金丸土屋旅館の夕景

金丸土屋旅館の入口土間

 立科町芦田の中山道芦田宿に、江戸期から続く旅籠宿の「金丸土屋旅館」が今も営業されている。
芦田宿は芦田城芦田氏の浪人で芦田村の岩間忠助と茂田井村の土屋右京衛門が、宿の開発にあたり、
土屋氏が本陣に、問屋名主には岩間氏がなったもの。
近世中山道の芦田宿は、現在もそのまま立科町の町政の中心地となっていて、旧中山道沿いに「金丸土屋旅館」が昔の姿そのままに古い町並形成に寄与していた。
石畳みを進み、扉を開けると石畳の土間があった。声をかけると現れたのは7代目というご主人。廊下を奥に進み、庭を見て右側の一番奥の部屋に案内頂いた。書院付の床の間のある立派な造りの部屋。
そしてお風呂やトイレ・洗面所などを教えてもらうが、泊る部屋は立派な旅籠宿の部屋、お風呂などは最新式の設備で、その落差??格差に驚く。もっと驚いたのは調理場が床暖房になっていたことである。
玄関入口土間の右手が食堂になっているが、昔はそこも土間で上がり框の先が廊下に繋がっていた。
奥に続く廊下の両側が、客室になっていて、右側に4室、左側に3室がある。
建物は9間×9間の大きな家屋である。2か所に2階への階段があるが、両方とも傾斜が物凄く、梯子状態の急勾配の階段である。ご主人に頼んで2階の部屋も案内してもらった。客室にはなっているが、今は殆ど使っていないそうですが、街道に面して3室があり、更にその奥と言うか上にもう一部屋あった。
一番奥(上)の部屋は客室でなく物置のような造りで、屋根小屋に登るための梯子が置かれていた。ご主人から登られますかと聞かれたが、高齢を考え流石に登るとは云えなかった。今までにフィンランドから来た子供さん一人が登られたことあると仰っておられた。
仏壇まで見せて貰い説明を受けた。前述のようにご主人は7代目だそうですが、芦田宿を開発し初代から本陣になった土屋右京衛門の何代目かの時の分家で、今も残る本陣土屋本家の位牌を三つに分けて、分家したものであり、これが本家から分けた位牌、それ以後6代に亙る位牌はこれこれと説明されていたが、写真を撮るのはためらって撮らなかった。
7代目のご主人が宿を継いだのは約5年ほど前で、ここで生まれ育って古くからの旅籠宿の真髄は受け継いだ積りだが、何時までもこのままの建物管理は無理なので、どうして旅籠精神を後世に残すかと思案中と仰っていた。経験が浅く料理は今一だと思うので、水廻りと米(ご飯)と箸には自信があると強調されていた。箸??と疑問符を投げかけると、4角・5角・6角・7角・8角の塗り箸を出して来て、7角の箸が一番使いよく、頭脳の刺激によいとこことで、普通は7角の箸を使っている。よろしければと7角の箸を頂いて帰った。
何回も書くが私は食には余り関心が無く、料理の内容については省略したいが、地元産の食材を主にした料理を心がけているとのことだった。
また、裏の田圃でつくる米も美味しいとのことで、約1kg程のお米を頂いたが、今回の旅はリュックを背負っての旅で、重くなるのは困るので、写真を写し確かに貰いましたと云って丁重にお返しした。
翌日のバスの時間が11時10分発まで無い。それまでどう過ごすか。明日ご主人が田圃の仕事と仰ったので、田圃に付いていくと約束したが、結局は宿や米の貯蔵・土蔵の基礎部分の石の話をして頂き遅いバスに乗って帰ってきた。
その中でビックリしたのはお米のこと。米の貯蔵は普通玄米で保存するものだが、金丸土屋旅館では「籾」のまま保存されている。旅館の裏側には木造建ての米の貯蔵庫があり、保存されている米を見せて頂くと「玄米」でなく「籾」であった。玄米と「籾」では米の酸化度は随分違う筈で、ご飯の美味しさに拘っておられるのがよく判り、ここまでする旅館が他にあるだろうかと思った。
長い間、貴重な時間を私に頂き有難うございました。
(2017.4.19宿泊)

泊まった部屋

泊まった部屋 欄間が大きく天井が高いのが判る。

泊まった隣の部屋

入口土間の石畳み

奥に続く廊下

2階への階段 急勾配ですね

土間から上を見た骨組

もう一方の2階への階段 こちらの階段は少し傾斜が緩かった

街道に沿った2階の部屋

街道に沿った2階の部屋の奥(障子)は中3階部分の天井部屋

2階の部屋から見た街道筋

2階の部屋から中3階の部屋への階段

天井部屋の様子 梯子は空気抜き屋根への梯子

天井部屋から見た空気抜き部分

2階部分の壁の骨組
 
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