恵那市 旧大井宿 |
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料理旅館いち川 | ||
岐阜県恵那市大井町95-1 電話 0573-25-2191 |
旅館の前景入口部分 |
旅館前景入口部分の夕景 |
入口玄関 |
大井村は古代東山道の大井駅が置かれ、近世には中山道の宿場町として栄えた所である。中山道の大井宿は江戸から46番目の宿場であった。東から西に向かう中山道は横町川の板橋を渡って宿に入り、 一つ目の角を南に折れて横町となり、ここに本陣がある。また西に曲がった所(二つ目)が本町で、問屋場が北側に、もう一軒の問屋場と脇本陣が南側に並ぶ。北に折れて(三つ目)竪町、西に折れて(四つ目)茶屋町、南に折れて(五つ目)橋場と続き、西に折れて(六つ目)北流する阿木川を板橋で渡るのが大井宿の町並であった。 旅館いち川は三つ目の折れ曲がりの所にある(現在は直線になっている)。 初代市川左右衛門は寛永年間(1624~44)に旅籠屋「角屋」を現在地で始めた。それ以後連綿と営業が続けられているのである。 本陣から西に進んだ突き当りの角に建っていたので、「角屋」の屋号だった。その後、角屋の屋号は明治初年に「旅館いち川」に変更されている。 建物は天明7年(1787)の大井宿大火の後、再建されたものが昭和10年まで続いていました。 市川家13代目が昭和初期から第2次大戦の終戦前までの、約20年間大井町長を勤めていたときに、枡形に折れ曲がった道路は不便であると、自分の屋敷と隣の古屋家の所有地を提供して、大井橋までの直線の道路を昭和10年に開通させたものです。その時に建物を取り壊したもので、取り壊し前の写真を下に掲載しています。今の建物はそれ以後に建てられたものです。 大井宿は中山道の宿場の中でも旅籠屋が多く、天保14年(1843)で41軒あった。それは美濃16宿中最高の数で、大変な賑わいであったことが伺え、角屋はそんな中の大型旅籠屋の一軒であったと思われ、現在も江戸期の代表的な旅籠屋を大井宿で唯一続けている旅館である。 案内されたのは大きな部屋で、前の道に面しているが高い塀があり道は見えない。14畳の部屋で、6畳と8畳の部屋を後で合体させた造りであった。予約時になるだけ6畳の部屋でないように頼んだが、ここまで大きいとは予想外で、一人で泊まるにはチョット広すぎのようにだった。 建物は昭和10年以降に建てられたものとのことで、それなりの古さを求めての宿泊だったが、古さを感じるところが殆ど無い、期待外れの宿泊になってしまった。言い直すと、チョットでも今風な和室になるよう、チョットでも古さを無くすように改装を重ねられた結果でしょう。 夕食時に3代続く女将が挨拶に見えたのにはビックリしました。14代目・15代目・16代目の女将で、14代目の女将は92歳と仰っておられたが、翌朝のチェックアウト時には清算業務をされていたのには更にびっくりした。 これだけ歴史ある旅館だから有名人も泊っている筈と調べると、歌人若山牧水・画家名取白秋などが滞在されていた。 料理旅館と称されているので、料理をメインにした旅館だろうが、今では中山道を歩く外国からの旅人も積極的に受け入れていると仰っておられたが、泊った当日は外国人らしき人は見かけなかった。 旅館の切り盛りは誰がされているかは判らないが、応対などで一番接触したのは、古くからの従業員と仰る方と16代目の凄い美人女将だった。14代目の大女将によると、16代目の若女将が対外的な交渉も付き合いも熟し、よくやってくれて、英語も勉強して外国人相手に対応できるので大変助かっていると感謝の言葉を私に語って居られたのが印象に残る宿泊だった。 (2018.8.7宿泊)、 |
泊った部屋 |
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泊った部屋 |
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入口部分を内側から見ると |
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食事した部屋 |
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客室 |
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客室 |
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客室 |
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和風大広間 |
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入口部分夜景 |
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昭和10年までの「いち川」の建物 |
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3代続く女将(左から15代目・14代目・16代目)夕食時に挨拶に来られた |
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入口横の庭 |
食事した部屋の照明 |
玄関横に置かれていた鬼瓦 |
館内のチョットした空間に置かれた生花 |