信州渋温泉
ひしや寅蔵
長野県下高井郡山の内町平穏2212
電話 0269-33-2105

正面前面

正面前面の夕景

入口部分

  信州渋温泉は数えてみると4回目の訪問になる。前回の「つばたや」に続いて今回も大湯隣の渋温泉の草分けの老舗旅館「棲鳳館ひしや寅蔵」に泊まった。創業400年という。
開湯伝説によると、1300年前に行基が発見したとされ、戦国時代には武田信玄のかくし湯の一つであった。川中島の戦いの折には傷ついた兵士を療養させた所でもある。
石畳みのゆるやかな坂道の両側に温泉旅館が建ち並び、外湯巡りが有名な温泉地。共同浴場は9つあり、一番湯・初湯から始まり九番湯・大湯で総仕上げ、最後に渋高薬師で満願成就と言われている。
お宿「ひしや寅蔵」は正式には「棲鳳館ひしや寅蔵」というそうです。大湯の奥隣に位置する「ひしや寅蔵」は「折り紙ギャラリー」を併設していた。
案内してくれたのは12代目の大女将で、入口から一旦2階に上り、再び一階に降りて中庭に面した部屋だった。予約時には前の道に面した部屋と頼んだが、高齢の大女将には意味が通じていないようだった。
その大女将がしきりに中庭の奥にある露天風呂を見に行けという。温泉宿に泊りながら温泉と食事には余り関心がないので、聞き流そうと思ったが暖簾を潜って露天風呂をみるとびっくりした。建て込んでギッシリと詰まって建てられている渋温泉街にこんな空間があったのかと思う立派な露天風呂があった。
なんでも、幕末の天保14年(1843)10月16日~26日に松代藩士の佐久間象山氏が滞在したときに、庭の池にお湯をはり入浴したのが、「ひしや寅蔵」の露天風呂の始まりと伝えられている。
食事は別室で頂いたが、私と接するのは全て足の少し不自由な12代目の大女将。料理は誰が造るのとの問いに息子がとの事。13代目が食事を造っているようだが、13代目の女将は話にはでるが顔を見せない。旅館業にはタッチしていないのかも知れないと思う。
翌朝、13代目のご主人と話す機会があった。大変親切に宿の歴史や資料などを持ってきて説明してくれた。旅館となっている本館も、折り紙ギャラリーの別館も建築年代は不明だが、屋根裏に明治年間の新聞が貼ってあったので、建ったのは明治期でしょう。多分別館の方が古いと思われるとのことだった。
夕方、宿の外、大湯前に出てみると、多くの旅館宿泊客が、木製の大きな湯めぐり札を持ち、カランコロンと下駄の音を響かせて外湯巡りをされていたのが印象的だった。

(2019.10.22宿泊)

泊った部屋

別の部屋

別の部屋

別の部屋

別の部屋

本館と別館を繋ぐロビー部分

立派な露天風呂

玄関入口を上がったところ

玄関入口を上がった所

階段・廊下の手摺

玄関を内側から見ると

幕末に松代藩士 佐久間象山氏が宿泊した標識

併設されている折り紙ギャラリー

併設されている折り紙ギャラリー

併設されている折り紙ギャラリーの建物

館内には多くのステンドグラスが

照明のデザイン

ステンドグラスの照明カバー

ステンドグラス

大湯の隣のひしや寅蔵の建物(明治期)

中央の大きな建物がひしや寅蔵(明治期)
 
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