青根温泉
湯元不忘閣
宮城県川崎町青根温泉1-1
 電話 0224-87-2011

不忘閣の正面(金泉堂)ですが入口は奥右側の建物です

不忘閣金泉堂の夕景で、左上の建物は青根御殿です

不忘閣の入口

  山形県・宮城県の県境にある蔵王連峰の東側に位置する青根温泉。開湯は享禄元年(1528)と云われる古くからの温泉。江戸時代には仙台藩伊達氏の御殿湯が置かれていて、藩主専用の湯治場であった青根御殿と御殿湯が存在する。
湯元不忘閣は21代も続いている歴史の古い温泉宿である。慶長年間(1596~1615)伊達公から「湯別当」の高禄をもらい、代々藩主の保養所温泉守りの役と関守を兼ねていたらしい。
約470年前に滞在していた伊達正宗が「この地を忘れまじ」という思いで ”不忘” と名付けた温泉宿。
青根御殿をはじめ、本館(金泉堂)、土蔵、門、離れといった計7棟が国の登録有形文化財に指定されている。
仙台空港からレンタカーで宿に着くと、偶然でしょうが雨の中傘も差さずに当主の出迎えと受けた。案内されたのは昭和30年に建てられた新館の部屋。前に青根御殿、左手に金泉堂の建物が庭越しにみえる。
部屋に着くなり若女将??青根御殿を見せて欲しいと頼んだが、青根御殿は明日の朝8時50分から女将が案内します。鍵も女将が持っているのでと断られた。でも館内の案内はして頂いた。
藩主専用の青根御殿は明治時代に焼失したものを昭和7年に再建復元したもので、今は資料館になっていて、古文書などの各種資料が展示されていた。
本館(金泉堂)(明治40年建築)の一階は各種資料の展示場や休憩室として、2階は宿泊者の食事場所として使用されている。その奥に大湯や御殿湯等々の温泉施設があった。
かって青根温泉には共同浴場は「大湯」「名号湯」の二軒が存在した。そのうち一軒が「大湯」で、隣接する旅館「不忘閣」の内湯も兼ねていたが、2006年に大湯は老朽化のために閉鎖され、新しく日帰り入浴施設「じゃっぽの湯」がオープンした。
しかし、伊達氏ゆかりの「大湯」の再開が望まれ、2008年に「湯元不忘閣」の宿泊者のみが利用できる温泉として復活したもの。温泉に浸かりながら上を眺めると、木製の骨組の太い梁や棟木に圧倒されるし、切石組みの浴槽は天文15年(1546)に施工された当時のままとのこと。また、連続して建ち並ぶ土蔵群の一番奥の土蔵内に湯船を備えた「藏湯浴司」があり檜の浴槽が見事。歴代藩主が入湯した御殿湯もあったが、随分大きな浴槽で当時とは浴槽の状態は変わっているだろうと思いながらの入湯だった。他にも多くの温泉が設けられていたが、全てには入り切れない。
泊った部屋から2階に上がると、そこから上に上にと続く階段があり、登り切った所が「不忘庵」と名付けられ客室が連なる。こちらの建物は昭和50年建築だそうですが、湯元不忘閣では一番多くの客室がある建物の様だ。只、ロビーから見ると6階程度の階段を登らないとこの部屋に来られないので、温泉に入るためにも、食事するためにも一階まで階段で降りなければならず、この部屋に泊るのは体力が要ると心配する。でも女将??によるとこの窓から仙台や海まで見えるそうですが、当日は雨が降ったり止んだりとガスがかかって視界は悪く何も見えなかった。
朝食や夕食は本館と呼ばれる金泉堂の2階で頂くが、食事を頂いた部屋から夕闇せまる青根御殿に電気が灯され、幻想的な雰囲気の中での夕食には感動した。
翌朝8時50分になるのを待って、大女将の案内で青根御殿を見せて頂き説明を聞いた。参加したのは私一人で大女将はチョット不満そうだった。前述のように伊達の殿様専用の湯治場だったが、明治期に焼失したので、昭和7年に復元再建したもの。古文書や各種資料や宝物などが展示されていて、著名人がこの青根御殿に宿泊した時のことなどを説明されるのだが、余り関心なく写真ばかり摂るので、これにも大女将は多分不満だったのだろうと思う。悪いことをしたと反省しきり。
また、湯元不忘閣は「日本秘湯を守る会」に参加されていて、玄関入口や館内にも「日本秘湯を守る会」の大きな提灯がぶら下がっていた。
(2016.7.5宿泊)

泊った部屋(新館)
 

夕食を食べた部屋(金泉堂)

食事処の案内 大きなノコギリで表示されていた

金泉堂の山側通路(右側建物は青根御殿)

金泉堂の山側の休息所

傾斜地を階段で上ると多くの客室が在る不忘庵に行く

大湯の浴槽と構造材

土蔵群の前を通って藏湯へ

土蔵群の奥にある土蔵内の藏湯

青根御殿の夕景、食事の時に見える青根御殿

青根御殿の一階廊下

青根御殿の2階上段の間

青根御殿の2階(奥が上段の間)

青根御殿の階段
 
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