塩尻市
奈良井宿
ゑちごや
長野県塩尻市奈良井493
電話 0264-34-3011

ゑちごやの前景

ゑちこやの夕景

ゑちごやの入口、旅籠行燈が迎えてくれる。

  奈良井宿は中山道木曽路で北から2番目の宿場町で、木曽路の中でも最も標高の高い位置(約940m)にある宿場町である。難所の鳥居峠をひかえて「奈良井千軒」といわれるほど繁昌した町で、木曽十一宿の中では最も賑わった町である。平地がなく農作物のとれないこの地が、これほど栄えた背景には、奈良井独特の産業としての木工業があったことがあげられる。
天保期(1830~44)には本陣1・脇本陣1・旅篭5・問屋2である。他の宿に較べて旅篭が少ないのは、檜物細工や櫛塗物・漆器関係の職業が多く、他の宿場と大きく異なっているが、茶屋も含めると40軒ほどあったそうで、木曽路最大の宿場であった。
「ゑちごや」はそんな中で寛政年間(1789~1801)創業以来200余年間、連々と今現在に続く奈良井宿唯一の旅籠旅館である。街道に面した正面には「猿頭のついた鎧庇」の軒庇があり、二階の柱から吊金具でつった庇が見られ、これは中山道でも奈良井宿だけに見られるものだ。
入口を入ると一番目に付くのは旅籠行燈(あんどん)。江戸時代に造られたもので、檜造りで一本の釘も使われてないそうだ。ご主人に案内されたのは街道に面して建つ母屋の、街道と反対側の2階の部屋。その部屋に行くまでの通路が旅籠時代そのものである。入口土間の直角に曲がった上がり口から、障子で区切られた次の間に入ると見事なもの。電氣の照明以外は全て江戸期。煤で黒くなった神棚や番傘・防犯用の武具・防火用のトビ口、急勾配の箱階段は黒光りしている。上を見ると黒く煤けた構造材の柱や棟木・梁が。多分この部屋に囲炉裏が備わっていたのだろう。更に奥の障子を開けると又もや同じような部屋だが、今度は煤けた天井の低い部屋。この部屋には唯一テレビが置かれていたので、談話室のような感じですが、小学生と幼稚園の女の子が勉強部屋として使っていると云っていた。この部屋の右側の扉を開けると、急勾配で幅の細い黒光りする階段があり、上ったところにある部屋に案内された。
6畳と4.5畳の二間続きの部屋で、黒い板張りの天井も鴨居も低い古い形式の部屋で、旅籠当時のままの部屋と感じた。旅籠時代には二つの部屋として使われていたのだ。障子の外の縁側にはアルミサッシュの窓が備わっていのは、寒さのキツイ奈良井宿なら仕方ないと思う。ご主人は旅籠宿に拘っておられるようで、部屋にはテレビもエアコンも設置されていなかったが、ガスストーブとホームコタツ、寝床には電気毛布が備わっていて室内は暖かかった。そしてホームコタツの上には最新の週刊誌が。翌朝にはその日の朝刊を持って来てくれた。余談だがトイレも暖房されていたのには驚く。
ご主人に頼んで、別の部屋も見せて貰った。街道に面した母屋から奥に続く廊下を通って行くのだが、その廊下も磨き込まれた黒光する見事なものである。ご主人によると創業時からのものの様だ。
部屋に入ると、鴨居は低いが天井は少し高くなっている二間続きの部屋である。今は二間続きの部屋になっているが、旅籠時には二つの部屋として使っておられたのだろう。奥の方の部屋には床の間に書院も備わっている。縁側の外の庭の先には線路が見える。JR中央本線の線路だ。旅籠宿と喜んでいたのが一気に現在に戻されたようなおかしな気分だ。
部屋で少し休んだ後、入口の土間に降りると、そこには沢山の講中札が揚がっていた。江戸後期から明治期の講札で、伊勢参りの講札、御嶽詣での講札、日野商人札など多くの種類の講札が揚がっている。
泊った部屋の階段下の部屋では、幼稚園の年長組という妹と、小学校3年生と云う姉の姉妹が遊んでいる。9代目と仰るご主人は私と対応してくれて、子どもたちもいるが、女将の顔は見ないし、調理場にも居られなかった。
夕食は部屋でとのことで、あの急勾配の狭い階段を、料理を持って上り下りされるのかと思うとご苦労が忍ばれる。料理を造るのも、客室に運ぶのもご主人だったが、一度だけ女将が運んで来れれたことがあったが、その他の寝床の設えもご主人だった。
料理や食事には余り興味のない私ですが、料理を運んできたご主人が、一品づつ丁寧に説明されていたのが印象に残る。
女将が運んでこられた時に、聞いたのはこれから真冬になり、宿泊客が少なくなるので、その間はご主人は近くのスキー場に、女将は近くの郵便局に働きにでるとのことだった。
「ゑちごや旅館」のある辺りは奈良井宿の中程で、本陣や脇本陣の在った辺りで、道幅が6m~8m程もある。参勤交代のために広い道路が必要だったのだろう。また雪は比較的少ないが、「ゑちごや旅館」で標高945mもあり、一旦降った雪は融けないで凍ってしまうとのこだった。屋根については今は鉄板葺きだが、昔は石置きの板葺き屋根だったそうである。
今、日本全国で旅籠宿がそのままの形態で営業されている所は、極僅かしか残っていない。そんな中で「ゑちごや旅館」は一番旅籠宿の形態や状況を今に伝えている現役の旅館で、大変貴重で重要な存在だと思う。何時までも続いて欲しいと思い、また、旅籠時代のこの方法で営業すること自体を保護する術が無いだろうかとの思いで宿を後にした。
(2017.12.5宿泊)

泊った部屋、天井も鴨居も低い

別の客室、天井が高い

二間続きの部屋、天井が高いが鴨居は低い。

階段は急勾配で幅は狭い、梯子のような感じ

ゑちごやのロビーに当たる部屋にある箱階段。急勾配だ。

ゑちごやのロビーに当たる部屋にあった神棚と上の構造材

ロビーに当たる部屋にあった道具。上は防火用、下は防犯用

入口に有った講中札

奥の部屋がロビーに当たる部屋、手前が休憩室だろうが、今は子供の勉強部屋になっていた。
右側の本棚の左側に仏壇があった。本山は永平寺とあった。

旅館のロビーに当たる部屋、奥の障子を開けると入口。左側は厨房。天井は構造材の柱や梁が剥き出しになり囲炉裏の煙を出していたのだろう。 ご主人が顔を出した瞬間。

奥の客室横の廊下、創業時のままだそうです。

奥の客室の外側には、JR中央本線の線路が

奥の客室の鴨居に「猿の腰掛」に描かれた旧客室名

「ゑちごや」に着いて直ぐに雪が降り出した。

「ゑちごや」前の夕方の風景

「ゑちごや」前の翌朝の光景、夜の間に雪が降った
 
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