赤沢宿
江戸屋旅館
山梨県早川町赤沢158
 電話 0556-45-2162

江戸屋旅館の外観

江戸屋旅館の夕景

入口玄関だが、実際は大女将の出入り口だった。

 早川町赤沢は山梨県西部、日蓮宗総本山で知られる、身延山久遠寺の裏側にあたるところに位置している。
江戸時代の中頃になると、信仰を理由にした旅行が急に盛んになり、信仰にかこつけての物見遊山が始まる。富士講は富士登山、身延講は久遠寺参りと身延山・七面山登山、伊勢講は皇大神宮参詣など、白装束に桧笠、手っ甲、脚絆、草鞋履き姿の大勢が旅をした。
山岳信仰の霊場であった七面山は、江戸を中心に組織された身延講の発達とともに一段と七面山参詣が活気を呈した。七面山への参詣が身延山参詣とセットで行われ、身延山久遠寺に詣でた人々は奥の院を経て、赤沢宿を通り春木川を渡ってから再度表参道を登って七面山山頂に達した。
赤沢は山岳霊場身延山(1152m)から七面山(1982m)へ登る唯一の道筋の、唯一の宿場町として開けた。赤沢は身延山から下ってきて、春木川に下る直前の山腹にしがみついた宿場である。
明治初期の赤沢宿には九軒の旅館があった。上村に恵比須屋、玉屋、両国屋、大黒屋、萬屋、喜久屋、信濃屋などがあり、身延往還という3m足らずの石畳の急坂道に沿って並び、下村は比較的勾配が緩やかで、そこに清水屋、そして赤沢の草分けといわれる大阪屋、江戸屋などが今に残っている。
赤沢の旅篭の特徴は「長い土間」と多くの「講中札」だ。「長い土間」は一階座敷の回りにL字型の縁側を付け、その外側に土間を巡らして、一斉に草鞋を脱いだり履いたり出きるようになっている。
また、軒下にかかる「講中札」は講の指定旅館の標示で、今も大阪屋や、恵比須屋、大黒屋などに多くの「講中札」が揚がっていてなかなかの壮観だ。
4月、10月のピーク時には客室だけでなく、穀蔵まで宿泊客があふれ、最盛期の一日当たりの宿泊客は千人、食事をとる客は五千人と推定された。講中組織が解体し、自動車道が早川沿い整備されて、参詣客が赤沢を通ることなく七面山登山口へ直行できるようになり、赤沢宿は衰退の一途を辿り、昭和の終わり頃には6軒だった旅館も、平成12年には3軒になり、平成17年には江戸屋一軒になってしまい、現在も赤沢宿で唯一軒だけ営業を続けている旅館です。
迎えてくれたのは400年程続く江戸屋27代目の大女将 望月 絹さん。大正13年生まれの91歳という高齢にもかかわらず、宿泊する部屋まで案内して頂き、建物や装飾品についていろいろと説明をして貰いました。
100人近くの宿泊客が同時に草鞋を脱いだり、履いたりできる長い縁側と土間のどこから上がってくれてもいいよとのこと。それにしても長い縁側と土間が建物全体の2面全てであるのには驚く。一部応接室を造るときに、縁側を廊下にしたとのことですが、それでも全長は20mは超えるでしょう。
建物は1階部分が江戸時代末期の天保13年(1842)の建築で、明治10年にその上に2階部分を増築したそうだ。
泊った部屋は一階大広間の奥の部分の二部屋を使わせて頂きました。江戸末期の建築と云うことですが、材料が良いのか、建築技術が良いのか、手入れが万全だったのか、殆ど狂いが無く老朽化していない頑丈な建物のようでした。
2階に登る階段は表入口と裏側の2ヶ所にありますが、表入口の階段は余りに急勾配過ぎて危ないので今は使用せず、裏側の階段を使っているとのことでした。
夕方長い土間・縁側で外の景色を見ながら冷えたビールを飲み至福の時を過ごしたのは良い思い出になりました。
宿は28代目の若女将が一人で切り盛りされていました。ご主人が7年前に亡くなったので、最近息子が帰って来てくれましたとのことでした。
泊った日はテレビで今日は異常に暑いと報じていましたが、厚い冬蒲団に毛布を使った寝床が設えてあり、気持ちよく寝られましたが、そう云えばこの江戸屋にはエアコンの設置がされていません。真夏でも暑さは大丈夫の様です。
(2016.06.14宿泊)

泊った部屋

一階の大広間の奥の部屋二部屋を使わせて頂いた

一階の2面全部が入口になっている。何処から揚がってもOK

長い土間に座り、夕方外の景色を見ながらビールを飲む

夕景 1階の雨戸がまだ閉められてない

寝床 どの部屋にもエアコンの設備はありませんでした。

早朝 まだ雨戸が開かれてない状態

2階の軒先に揚がった旅館の看板

講中札が少し掲げられていた

天井に貼られた講中札

2階の大広間 天井が随分低かった

2階の部屋ですが、強いて電気を点けないで撮影した。

入口玄関横の階段ですが、余り急勾配過ぎて危険だから、今は奥の階段を使っているとのこと

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