細久手宿
大黒屋旅館
岐阜県瑞浪市日吉町7905-1
電話 0572-69-2518

大黒屋旅館全景

大黒屋旅館の夕景

大黒屋旅館の正面入り口

  中山道細久手宿の大黒屋を初めて見たのは、もう15年以上前だった。町並が歯抜けばかりになった集落内でただ一軒旅館として昔の古い建物のまま営業されている姿には感動したのを覚えている。
そして、この「旅籠宿に泊る」という企画の第一宿泊場所としたのだが、大黒屋さんに電話すると、自動車がノーマルタイヤだとダメだと云われて、雪解けを待っての宿泊になった。
中山道細久手宿には本陣も脇本陣もあり、それぞれ機能していたが、この地の藩主である尾張の殿さまが宿泊する時に、他国の大名との同宿を嫌い、尾張藩専用の宿を当時宿場の問屋だったこの大黒屋と指定して宿舎としたものである。
細久手宿は天保14年(1843)の宿村大概帳では、町並3町45間、家数65・人数256、本陣1、脇本陣1、旅籠24、問屋2とある。この問屋役の一軒、酒井家が尾張藩指定の本陣となったものである。
細久手宿には本陣も脇本陣も遺構は全く残って居らないが、この大黒屋は江戸期の姿のまま今も旅館として営業されている。
本卯建の揚がった屋根や主屋の入口が門となっていて観音開きの扉が備わっている。玄関を入れば直ぐに上段の間となっている。宿泊中何度その段差でつまづいたか。一度などお酒の入った銚子を持ってけつまずき、あわやお酒をということも。階段が急勾配なのも古い建物の特徴と手摺にしがみついての登り下りだった。
建物は安政5年(1858)の細久手宿の大火で宿の建物が殆どが焼けてしまい、その翌年の安政6年12月の建築との資料が出てきたようだ。
話を聞くと、明治になって旅籠を辞めたようで、料理旅館として再開したのは昭和26年、今もご健在て私の話し相手をして頂いたのは第15代目の旧女将で91歳の酒井房子さん。
当時はこの地では亜炭の採掘が活発で、8ヶ所も鉱山があったそうで多くの人が集まってきていた時に、料理旅館の大黒屋の営業を始めたとのこと。亜炭が石炭にそして石油と代わり、土地ブームもきたがダメになり、東海自然歩道が出来て、街道歩きの方が多くなり今になっているとのこと。
今この宿の切り盛りをされているのは第16代目当主で、貴重な話を聞いたのは第15代目の旧女将。第17代目当主は見かけなかったが、その奥様と子供の第18代目当主の2歳位のお子さんは帰るときにバイバイと手を振ってくれたのは印象的だった。
(2015.3.25宿泊)

大黒屋旅館の一部がギャラリーになっていた

大黒屋旅館入口玄関に下げられていた木板(木板を叩いて来訪を知らせる)

一階奥上段の間の付書院

玄関にある階段

奥の階段だが、ここまで急だと梯子と同じ

私が泊った部屋の床の間

建物内部の廻り廊下

旅館内にあったスズメバチの巣(戦後旅館として営業される前のものでしょうね)
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