秩父市 | ||
新木鉱泉旅館 | ||
埼玉県秩父市山田1583 電話 0494-23-2641 |
新木鉱泉旅館の前景 |
新木鉱泉旅館の夕景 |
新木鉱泉旅館の入口 |
秩父札所巡りが成立したのは室町幕府の頃と云われ、時代の流れの中で疲弊と再建を繰り返して現在に至っています。江戸期の元禄・文化・文政期には一日に二万人から三万人が秩父の札所を廻ったという記録が残っていそうです。 これだけの人数を宿泊させる施設は、当時の秩父谷にはありませんので、札所の近くの民家はみんな民宿をやっていたと云われています。新木鉱泉もその内の一軒です。明治期以降、日清、日露戦争から第2次世界大戦頃までは、戦争の影響で秩父の札所も疲弊しましたが、昭和30年代後半からの経済発展と、西武鉄道の乗り入れにより再び多くの参詣者を迎えるようになったのです。 新木鉱泉旅館の創業は江戸時代の文政10年(1827)で、当時から秩父札所巡りの門前町として賑わって居りました。一番札所から順に歩いた場合、四番札所の金昌寺辺りが宿泊所として適当なため、新木鉱泉旅館での宿泊も多かったと思われます。また初代おきくばあさんによって発見された鉱泉は、万病に効くと評判になり、秩父七湯(御代の湯)の一つとして親しまれていました。 頼んでいた送迎車に乗り、案内された部屋は希望通りの、文政10年(1827)建築の初代おきくばあさんが造ったという八畳一間の客室。梁や棟木が剥き出しの天井の無い部屋。部屋の前は「カラス張り」と云われる歩くとミシミシと音を立てる廊下、掃除しても190年間の傷は消えない部屋、防音などお構いなしの部屋と案内書に書かれていた。 案内文から察して、さぞかし寒い部屋だろうと予想していたが、前もって暖房を入れてくれていたので暖かい。それも部屋の中が均一な温度のようだと思って部屋の中を観察すると、隙間が無いように壁と上部は漆喰で塗り固められている。エアコンの設定温度を見ると23℃とある。それでも快適な温度である。 一般的に古い旅館では隙間から暖かい空気が抜けてしまうので設定温度を27℃や28℃にしてフル回転させているのが多い。中にはエアコンのコードが熱を帯びているフル回転のものもあるほどだが。 そう思って廊下に出ると、玄関ロビーにもフロントにも大きなエアコンや石油ストーブを付けて、吹く抜け部分を使って殆ど全館暖房のような形になっているので、泊った部屋の廊下も暖かい。その上古い建物の吹き抜け部分に暖かい空気を攪拌する大きな扇風機がゆっくりと廻っていた。 防音もお構いなしと表現されていたが、隣室のとの境は押入れになっていて、隣室の物音は全く気にならず、廊下の音もさほど気にならず快適に過ごせた部屋だった。 女将の話では今で九代目だそうで、多くの従業員を抱えて奮闘されていた。当日の宿泊客は13~14名程で、夕食は部屋食だったが、朝食は大きな食事場所だった。 この旅館で特筆すべきは外観であると思う。現代風の外観になっているが、想像するに本来の2階建ての建物の前面に敷地の余裕があったので。2階からそのまま屋根を延して部屋にしたので、屋根の中から松の木が覗いていたり、延した屋根の一部を削ったりと見事な改造造作だと思う。また、内部の改造造作も見事で、旅館の入口部分にあった部屋の柱や梁を残して壁や床・天井を取り払ってしまって、構造材の骨組だけを見せた見事な空間を作り出していた。また、黒光する玄関・フロント前・廊下も見事なもの。改造改装した設計者や大工の技術・意匠感覚のレベルの高さに敬意を払いたい。 温泉も多くあるらしいが、部屋専用の温泉だったり、貸し切りだったり、時間制だったりしたので、結局入ったのは大浴場とその外側にあった露天風呂だけだったが、3回も入ったのは珍しいと自分で思った。 廊下の太い大きな柱には秩父札所の貼り札と思うが。多く貼られていたのは歴史を物語っているようだった。再度訪ねたいと思える暖か味のある旅館であった。 (2017.1.16宿泊) |
泊った部屋、天井の梁が剥き出しに |
泊った部屋 |
入口玄関ロビーの吹き抜け部分 |
入口玄関ロビーの吹き抜け部分 |
本館の2階廊下、見事に黒光していた。 |
本館の2階廊下、階段は屋根裏部屋への梯子 |
屋根裏部屋、図書室になっていた |
本館2階廊下 |
入口玄関部分にあるフロント |
大浴場と外は露天風呂 |
正面入り口部分の夕景 |
2階廊下に揚がっていた神棚 |
本館2階廊下に在った大きな柱。多くの札紙が |
泊った隣の部屋の天井部分。 |