中津川市 | ||
割烹旅館上見屋 | ||
岐阜県中津川市付知町6955-8 電話 0573-82-2141 |
旅館部分の前景 |
旅館部分前景の夕景 |
旅館部分の入口 |
裏木曽ヒノキの特産地として名高く、江戸期は伊勢神宮造営備林地でもあった付知村には、それらに携わる人々が多く暮らしていた所であったが、明治期に入り御嶽山への新道が開発され、御嶽参詣者の列があとを絶たず、付知村は宿場町に似た様相を呈していた。 明治41年の付知村統計表によると、旅人宿28軒・料理屋27軒・飲食店30軒となっており、山村として当時の盛況ぶりを知ることができる。 明治期に賑わった名残を色濃く残して平入・切妻造り・中2階建て・2階建ての伝統的な様式で建てられた大型の家屋が点在する町並みの中に今回訪ねた「割烹旅館上見屋」がある。 創業は明治7年創業と言うので、付知村が賑わい始めた初期の頃だったのだろう。今でも当時の建物を補修しながらの営業を続けておられる。 宿に着いて街道筋の入口から「こんにちわ」と声をかける。旅籠屋そのものの伝統的な土間を持つ立派な入口部分。感心しながら眺めていても、誰も出てこない。何度も大きな声をだすと奥からいらっしゃいと、女将が現れた。荷物を部屋に入れますのでここに荷物を置いて、横の道から奥の玄関に廻って下さいとのこと。指図に従って表に出て右に折れ、横の道を少し進むと「上見屋」と書かれた看板が揚がる玄関があり、扉を開けてはいる。先ほどの街道筋の玄関より小振りの玄関。その一角に古い金庫がデンと据えられている。 旅館の敷地は京都の町家のように、ウナギの寝床風に間口が狭く奥行きが深いもので、今の玄関入口は半分より奥まった横の位置にあり、入口から左に続く黒光する廊下の一番奥の部屋に案内された。(街道筋の部屋は客室として使ってないとのことであった) 一階には3~4部屋、二階にも同様な間取りの部屋が並んでいた。泊まった部屋とその隣の食事した部屋の書院の上部には黒柿の板が使われているのは珍しいと女将の話。女将は5代目で料理を担当している息子が6代目とのことで、6代目の若女将もちょこちょこと見かけたが、接客をしていなかったようだった。 女将に頼んで全ての客室を見せて貰った。全ての部屋で床の間や書院の意匠が異なり、それぞれ凝った造りがされていた。 部屋の両側に廊下があり、その外側が庭になっている。庭の踏み石の上には下駄が庭の散策用に置かれている。下駄を履いて持って来てもらったビールを庭を見ながら飲もうとしたが、チョット小雨の上に寒かったので部屋で飲むことにした。 部屋で頂いた夕食も、流石に割烹旅館と名乗っているだけあって、料理の内容も味もよく、しっかりと食べた筈ですが、少しは残してしまった。 泊まったのは本館と言うか木造の古い建物だったが、旅館の入口と道を隔てた反対側には鉄筋コンクリート造り2階建ての「上見屋会館」との看板が揚がる建物がある。宴会や料理を提供する場所として使われているようで、木造部分に宿泊したのは私一人のようだったが、旅館のチェックアウト時には多くの料理人が調理場で忙しく働いておられた。 朝食前に女将に町並を見たいのだがと言うと、2km程離れた中学校の辺りまで車で送って頂いて感謝感謝の宿泊だった。 街道に面した入口の上には木製の「屋見上」との看板が揚がっている。漆芸家・木工家で人間国宝の黒田辰秋先生の制作された看板だそうです。 (2017.3.21宿泊) |
泊まった部屋 |
街道に沿った旧旅館部分の前景 |
街道に沿った旧旅館部分の夕景 |
泊まった部屋の2階部分 |
泊まった隣の部屋で食事を頂いた部屋 |
泊まった部屋の前の黒光する廊下 |
泊まった部屋の前の廊下 |
旅館部分入口に繋がる廊下 |
街道に沿った旧旅館入口部分 |
廊下部分の夜の様子 |
上見屋の看板表札(漆芸家・木工家 人間国宝の黒田辰秋作) |
泊まった部屋の裏側の廊下 |
旅館部分の入口に置かれた古い金庫 |